レシーバー同好会

攻めろ戦えとハッパをかけられる事が多いが、本当は守るほうが好き。スマッシュやアタックよりレシーブにゾクゾクするあなた、気が合うかも知れません。ちなみにスポーツはしていない。

ためらいの倫理学

 

ためらいの倫理学―戦争・性・物語

ためらいの倫理学―戦争・性・物語

 

正義が峻厳にすぎないように、赦しが邪悪さを野放しにしないように。(p100) 

 

久々に寝る間を惜しんで貪り読んだ。これがあるから本読みはやめられない。

 

内田樹先生が「個人名で出版する最初の単著」とのことである。

内田先生が誰に頼まれた訳でもなくブログに書きつけてきたものを出版社が目をつけ世に出たもの。

以降の内田先生の著書の目次のようだ。先生の考えが凝縮されている。

魅力的なのは切れ味鋭く批評を書いてもいるが人格攻撃はしない。学問的には誤りでも「人間的」や「政治的」には正しいと言ってしまえるとことが偉い人だと思う。「もし自分がその立場なら間違いなく自分もそうしてしまう」という内田先生の目線は忘れないようにしたいところである。

 

「ためらいの倫理学」という題名が良い。

倫理学とは「良い」「悪い」「正しい」「正しくない」。それは元来二項に対立され 価値判断を伴うものである。学問の中でも歯切れが良く、というより歯切れの良さを求めるためのものであるように思う。それをためらう。価値判断を「ちょっと待てよ」とためらうのである。

今、偶然にジョージ・オーウェルの「一九八四年」を読んでいる。ここでは言葉が意図的に淘汰されており、語彙を減らされ対義語が消滅していく。例えば「良い」の反対は「非良い」である。これはためらいとは反対の姿勢である。言葉がペラペラで微妙なニュアンスが入り込む余地はなく、つまりためらいはない。(「一九八四年」については読了後また考えてみる。この本も当たり)。

 

「ためらい」についてレヴィナスの「顔」という概念を引いている。それはカミュ論での中の例が秀逸である。

カミュは「異邦人」の中で主人公ムルソーが人を殺した際、汗や光の加減で「顔」が見えなかったとしている。もし顔が見えていれば、汗が目に入らなければ、結果はどうあれ、ムルソーは殺人をためらったのかもしれない。

 

「顔」が見えること、見ようとすること。「顔」が見える関係であること。

人は統計や数字だけ見ていたら残酷で非情になる。100人死亡のグラフを見せられるより、一人の死者の顔写真を見せられた方が迫るものがあるはずだ。

審問と赦し、どちらかを選ばねばならないという倫理は最終的には必要である。それを正当化出来るのは、ためらうこと、顔を見ること。

非常に示唆に富むと思う。イスラム国しかり、ヘイトスピーチしかり、ネット上での人心の荒廃然り。一度しっかり顔を見てみるとそんなに恨んでばかりはいられないと思う。

 

「なぜ私は○○について語らないか」という 章立ても渋い。

「意見を持つこと」や「語ること」が過大評価されていると思う。口の上手い人が勝つ、という風潮。口下手で意見を持つことにためらってしまう人間は中々やりにくい世の中ではないか。

意見を持つことにためらい、語ることを押しとどめる。

語らないのだから理解してくれというのは無理かもしれないが、語らない人の気持ちを推し量ることも必要な事なのかもしれない。

この章立ては内田先生の個人的な語らない(語らなかった)理由であるとともに、口の上手い人が口下手な人を代弁しているようにも感じる。どうもありがとうございます。

 

人間とは矛盾を孕むもので、気持ちとはねじれているもので、愛国心とは葛藤を含むもの。こういった本来的に複雑なものを単純化してしまって答えに飛びつかないようにしよう。

強大なイデオロギーや哲学の前では平凡でか弱くて震えるような繊細な考え方だが、僕は強く惹かれる。ただ単純化してしまう人の顔もしっかり見てみようと思っている。

 

私たちは知性を計算するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場感覚」などというものを感情には入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できているか、を基準にして判断する。(p17)

「ためらい」こそが知性。

ためらわないことが称揚されている気がしないではないが、それは知性とは違う次元の話ということか。まあ確かに知性が一番大事というわけでもないだろうし。

しかし僕は知性が欲しい。少し間違っても大間違いしないために。

 

ジェノサイドというのは、「めざわりだから異物を排除する」というような「積極的・主体的な選択」ではない。その「異物」によって自分たちの社会がいま占拠され、自分たちの文化が破壊されようとしているという切迫した恐怖と焦燥に駆られたとき、ぎりぎりの「自己防衛」としてジェノサイドは発現するのである。(p24)

これは怖い忠告である。

僕たちが被害者だと感じて仕方なく自己防衛したと思ったまさにその時に、僕たちは最大の加害者となり得る。

被害者意識を持ってしまったときに、その恐怖と焦慮を持つにあたって自分に非は無かったか、そもそも本当の恐怖や焦慮か、相手に自分が感じている以上の恐怖と焦慮を与えていないか、と考えるためらい。ここでおそらく知性や想像力が試されるのだと思う。

お互いが正義の名のもとに世界(人間関係でも良い)を単純化し、「被害者」対「加害者」で捉えだすと争いが始まり、焦土となるまで収集がつかなくなるだろう。

 

国家の名においておかされた愚行と蛮行の数々。それと同時に国家の名において果たされた人間的偉業の数々。その両方を同時に見つめようとしたら、私たちの気持は「ねじくれて」しまって当然なのである。それをどちらかに片づけろというのは、言う方が無理である。(p54)

 極めてまっとう。本当にまっとう。

僕は人の足を引っ張る嫌な人間だけどお年寄りに席を譲ることもある。こんな自分は変えたいけれどよく考えたら良いところもある。

別の言い方をすれば、相手が嫌な思いをしたら「ごめんなさい」、助けてもらったら「ありがとう」、凄かったら「凄いね」、と時々に合わせて言いましょう、という話だと思いました。

 

一義的には定義はできないけど、効果的に利用することはできるようなもののことを「道具概念」とか「操作概念」と呼ぶ。(p135)

これは勉強になった。例として「リビドー」とか「気」とかがそうらしい。

あるのかないのか分からないが補助線として入れることで、説明がつきやすくなるものだな。つまりは「仮定」という意味に近い気もするが、それよりも道具っぽい感じかな。

「一九八四年」読んでるせいで引っ掛かったが、言論統制されたらこんな概念は生き延びれないなあ。

 

「読み飛ばせ。理解しようとするな」とシステムは命じる。

怠惰な読み手は黙ってその指令に従うだろう。しかし、真に反省的な読み手は、「抵抗」がもっとも強く働くときこそ、「読むことを自ら禁じているもの」にもっとも近づいていることに気がつく。(p152)

つまり「なぜ私はこの本(部分)を読まない(読めない)のか」という問いの立て方である。

読みたいもの、好きなものに理屈はない。それは感情レベルまで侵されているから、という言い方も出来る。そこに新たな発見はない。

そこで抵抗を感じるものに目をやる。無意識が避けているものの中に、自分が侵されている何か(教育か宗教かイデオロギーか)が見えるヒントがあるのではないか。

どこまでも自省的な考え方である。しんどいけれどそれが知性。

 

 

ニッポン景観論

 

ニッポン景観論 (集英社新書)

ニッポン景観論 (集英社新書)

 

自然を愛さなくなったというのであれば、今の日本は何を愛しているのでしょうか。(p116)

 

良書である。

幼い頃に聞いたこんな話を思い出した。

確か千利休の話である。

客人を迎えるため、利休が弟子に道の掃除を命令する。弟子は一所懸命に道の落ち葉を掃く。しかし掃いても掃いても利休の合格はもらえない。

「ではどうすれば良いのですか」と弟子が問うと、「こうするのじゃ」と樹を揺らし、

道に落ち葉を散らかした。

細部に自信はないがニュアンスはこんな感である。

幼心に「はーなるほど。これが美意識ということか」と感じたのを覚えている。

 

目標は「調和」である。

 落ち葉だらけのままでも、掃き過ぎるのでもいけない。適度に調和を図ること。

さて、それでは現代の日本の風景、看板、建築に自然と人工物の調和はあるのか。

「まったくない」というのが本書の趣旨であり、執拗に写真で根拠を示し、過剰なくらいの皮肉でめった斬りにしている。

 

ここまで言われて槍玉に挙げられている建築家や官僚は良い気はしないだろう。アメリカ人が何を言うのか、と。

しかし著者は1977年から京都・亀岡に居を構えており、単純に在日年数だけでも僕よりは長い。しかも景観への意識の高さは並大抵ではない。ここまで分かりやすく日本の景観について語ってくれた日本人を僕は知らない。皮肉が多いのも、皮肉に紛らさなくては建築家や官僚、ひいては日本人の立つ瀬がなくなってしまうからだろう。

これだけ日本の景観を愛している人は滅多にいない。

 

西洋文化は自然を征服し、日本文化は自然との共生を図ってきた、と習ってきたし、 そう思っていた。それが今では完全に逆転している感がある。景観についても、話題の原発についても。いつからだろうか、そしてなぜなのか。

 

日本人は自然に逆らうことを少なくし、忍耐力を涵養し共生の道を図ってきた(共生という言葉自体おこがましい気がするが)。

その生き方を技術力が進歩したからといって変えて良いのだろうか。

自然を敬っているとかなんとか言っときながら、力関係が逆転すれば(勘違いだが)自然を破壊するというのは、ばれないから万引きをするのと同じくらい浅ましいと思う。そこには文化も精神性も一貫性も見出せない。

著者はこれを文明開化以来の日本人のコンプレックスを理由にしている。自然の物や古い物に自信を持てないんからだと。

そして劣等感から自然を破壊しているうちに今度はまた「調和を図る」という世界の潮流から取り残されるという悲しい日本人。

 

まあ潮流はどうでも良いけど、単純に我々は良いもの、美しいものを残したいと考えるようにならないといけない。

そろそろ皆気付いているよね、言いにくいだけで。気付いていないならとにかくこの本を読んでみたほうが良い。

このまま何も残さないと後世の人達に「ふざけるな」と言われると思う。

 

奇抜で巨大な土木構造物は、 後進国では「それこそが文明」と喜ばれます。しかし、日本以外の先進国では数10年前から方向性が変わり、自然と歴史環境、美観に配慮し、かつ費用も規模も極限まで抑える技術の研究は進んでいます。(p71)

 各人の違和感を大事にしないと、雰囲気で政治が決まっていく日本では方向転換が難しく、ずるずると景観の破壊、資源の無駄遣いが進行してしまう。そしていつの間にか後進国と呼ばれるようになっていた。

 

国の予算のうち、土木、建設が占める割合は、アメリカが8%、ヨーロッパでは6~7%でしたが、日本は40~50%となっていました。土木、建設に関する雇用は、アメリカでは全雇用のうちの1%未満で、日本は12~14%でした。桁違いです。1年に敷き詰めるコンクリートの量でいうと、日本はアメリカのなんと33倍でした。(p87)

 国の予算のうち、土木、建設が半分を占め、国土面積の圧倒的に少ない日本がアメリカの33倍のコンクリートを敷く。どんな事情を考慮しても異常だと感じる。

どう考えても修正しないといけないだろう。単純に、いろいろともったいない。

 

日本では自国を紹介する時、キーワードとして「四季がある」という言葉がよ使われます。しかし、山では杉植林が、町では枝落としが、国土から「秋」をほぼ抹消したので、そろそろキーワードをアップデートしないといけませんね。これからは「日本には三季がある」ことを誇りにしていくべきでしょう。(p124)

 いや本当にお恥ずかしい。そんな変化も気付かずに、好きな季節は秋だなんて言っていたなんて。最低感受性くらい自分で守れよ、ほんとに。

みんなの家。

 

みんなの家。建築家一年生の初仕事

みんなの家。建築家一年生の初仕事

 

 若き建築家が初仕事として住居を建てるまでのお話。

 

施主は内田樹先生。道場兼自宅を建てられたことは知っていたが、建築家が光嶋さんだったとは知らなかった。こんなに若い建築家(著者は1979年生)に依頼していたとは。

更に著者紹介を見ていると「石山修武に師事」、とある。なんか見たことのある名前だと思ったら坂口恭平が師事していた人物だ。しかも光嶋さんと坂口恭平は年齢が1つしか違わない。

ふと手に取った本から繋がる繋がる。著者や書かれている内容によって世界が繋がる感覚ってたまにあるけけど、これが気持ち良いんだ。

 

 時系列に沿って、また大工やデザイナーなどの職業毎に本は進んでいく。建築の世界は無知だが、読んでいるとその道の一流の方が力を結集して作り上げた建物であることが分かる。

それを成し遂げた大きな要因は光嶋さんの行動力であろう。

 

この人は修行のため世界中の建築家に手紙を出し、その中の一つに潜り込んでドイツで修業をする。

旅先で気になる建築があれば、近くにその建築家が住んでいることを突き止め、その足で訪問する。

同じように、たまたま見つけた、もしくは昔から仕事をしてみたかった一流の方たちに対して物怖じせず「一緒に仕事をしませんか」と交渉を行う。 

 

何度も言うように建築は分からないのだが、光嶋さんは並みの建築家ではないのだろう。しかしそうだとしても初めて建築を行う建築家が、これまで第一線で活躍されてきた方々に対して仕事のオファーをするのは凄いことだと思う。

 

読む限りでは光嶋さんは楽しそうに職人たちと交渉し、しかもすんなり受け入れられている。

 性格で片付ければそこまで。性格も多分にはあるだろうが、そこまでして行動させるものに光嶋さんが出会った(見つけた)ということも大きいだろう。

 

年齢もキャリアも離れて、良いものを造るという思いが合えばあっさりとそれは叶ってしまう。活き活きと、自分の仕事を完遂することは楽しい。

 

自分にはこれだけ思いを持って出来る仕事、物怖じせずに交渉できることはない。

率直に羨ましい。

良い仕事がしたい。顔の見える人々が喜ぶ仕事が。これさえあればあれば何もいらない。

<問い>の問答

 

同時代禅僧対談 “問い”の問答

同時代禅僧対談 “問い”の問答

 

<主体的である>とは、<ある言語を、ある使い方によって使う>ということ(p68)

 

曹洞宗臨済宗、両派の禅僧の対談である。

答えを求めてこの本を読んでも無駄である。問いが増えるだけである。

しかしその問いの状況こそが、つまり問いのみの不安定な状態こそが人間である、という認識には救いがある。ずっと不安定なまま生きていくのが人間である。不安定だからこそ動き出すことができるのだ。

本文中に煩悩が無ければ発心しない、という言葉があるが、つまり不安な不安定な状態からがスタートであるということである。まず冷徹に不条理を感じることが重要と言ったカミュも同じような意味を感じる。

 安心するために凝り固まるのではなくて、不安定で居ていいし、不安定で居ようと思う。

 

南直哉さん、この方がなんとなく気になる。詳しくは知らない人だが賢そうだ。

精神的に参った時にこの方の写真を見ると、こんな賢そうな人でも悩んでいるんだな、と何だか救われる。

本を読んでみると答えは無くても、方向性は合っているかもしれない、そう思わせてくれる。何言っているか分からないけど、少しでも近付きたいから本を読む。

 

二人の言葉へのこだわりは非常に厳しい。

それは重要なことは言葉では伝わらない、と言いつつも言葉によって伝えざるを得ない禅僧の覚悟である。

言葉に出来ないものを誤解や甘さを含めて自分の責任として絞り出す、そんな姿勢が眩しすぎる。それに比べて自分の言葉がどれだけ散漫で上滑りしているか。

難しい仏教の話には置いていかれるが、こんなストイックな方がいるということ、また僕が知らないだけでストイックであろうとしている禅僧が他にもいるのだろうということを知ること、それだけでも有り難い発見である。

 

 

死者というもののリアリティが、ひょっとするとある人にとっては、現実よりも高いということです。(p23)

 死者の影響なんて存在しない、と科学的に言うことは出来る。しかし、実際に死者の影響の方が大きいと「感じる」ことは否定できない。それを感じている人には現実でしかないのだから。

それを分かったような顔して、死者は存在しないとか、逆に存在するとか語ることの危うさを繰り返し訴えている。ブッダはその危うさを知っていたがために死者やあの世については口を閉ざしていたのだという。

答えないことでしか答えられない。正直であるが力強くはない宗教だ。答えを与えてくれない宗教。

 

<生きる>ということのもっとも大きな力は、「アンバランスさ」だと思うのです。つまり、根本的にアンバランスだから動いていくのであり、それが<生きる>ことなのです。バランスがとれたら止まるに違いありません。(p84)

不安定で良いのだ、というか根本的に不安定が人間なのだという救いの言葉。右に左にとだるまさんのように揺れていようと思う。

 

「ネットワーク」とか「コミュニケーション」という言葉に対して抵抗を感じるのは、「個が先にある」と考えているからです。そうではなく、じつは「繋がりが先にある」わけですよ。そして、そこに個が立ち上がる。(p116)

 繋がりの中にこそ立ち上がる個。日本の哲学は元来こんな考え方を持っていたと読んだような気もする。

関係性が無ければ自己も他者もない。右が無ければ左がないのと同じで単純なこと。でもすぐ忘れちゃって「右手は右手」「自分は自分」て思ってしまう。

あなたがいなければ、もう僕は僕ではない。そう思って人や物と接しよう。出来るところから。

 

みんな修行僧の目は綺麗だ、綺麗だと言い、私も実際そう思います。それと同様に、いわゆる新興宗教にスポーンとはまった人間も、同じ顔をしているんですよ。それは、<自分がやっていることや自分が置かれている状況をまったく疑ったり考えたりしない人間の顔>だと思うんです。それはとても楽ですよね。(p277)

 「悟る」って修行僧の綺麗な目になることだと思っていたけど違うのか。答えを与えられるのではなく、起点として問い出すこと。そこからがしんどいのか、なるほど。

 

<笑う>というのは、バカにしているわけではない。二人が顔を合わせ、「あははは」と笑っているときには、自分たちの言っていること、あるいは自分たちがいる場所を、<どこからか別に見る力>が、つねにはたらいているのだろうと思います。(p303)

 気持ち良く笑った時は気が楽だ。それをどこからか別に見る力が働いているというのは言い得て妙だ。

気持ち良く笑わない時もある。その時は嘲笑や冷笑なのかもしれない。その時は遠くに行けず、妬み嫉みの感情から抜け出せない気がする。

気持ち良く笑って一次元上がって見る。難しい話しながらも難しい顔してないで笑おう、っていう技術的なところも禅の魅力だなあ。

マレフィセント

 

 

この映画がハッピーエンドとして示したものは何だったのか。

 

最終主人公が手に入れるのは恋人でも自分の子供でもない。言うなれば後継者である。その後継者は血が繋がっていない、かつて愛しそして呪ったことがある男、その子供である。なるほど生まれや過去に囚われず、認めるべきものは認めるべきだというメッセージかもしれない。

それはこれまでの社会制度、男性主体の考え方や血縁によるしがらみ等を意識した作品かもしれない。違うかもしれない。

 

僕の考え方がマッチョな前近代的な考えで染まっており、感性が鈍っているのだろうか。多くの方が感じたことが感じられなかったのかもしれない。

ちなみに一緒に見ていた女性は良い映画だったと言っていた(詳しい感想は聞いていない)。女心が分からないことが原因なのか。

女心の分かる人いませんか。

 

主人公はアンジェリーナ・ジョリー扮する魔女、マレフィセント

マレフィセントと恋に落ちた青年は、国王になるという自らの野望のため、恋心を犠牲にした上で国王となる。

裏切られたマレフィセントは国王と王女の間に出来た娘・オーロラに呪いをかける。

王は発狂しマレフィセント討伐を行うが、到底力及ばない。

一方、国王の知恵によりオーロラは深い森で静かに育てられる。実はそれを見守るマレフィセント。そのうちマレフィセントもこの娘を愛してしまい、自らかけた呪いを解きたいと思うようになる。

呪いは解け、オーロラはマレフィセントの後を継ぎ、人間と異界の者の統合の象徴となる。ハッピーエンド。

あらすじはこんな感じである。

 

呪いを解く真実のキスをするのが運命の人であると思われた王子でも親でもなく、実は一度呪いをかけたマレフィセントでした、というところが映画のミソだ。

 

この映画、ほとんどの男がダサい。

王は真実の愛を忘れ、野望に走り、恐怖に発狂し、死んでしまう。

オーロラと恋に落ちる王子のキスでは呪いは解けず、間抜けである。

終始女性が主役であり男は脇役。ということはやはり女性を観客と考えているのだろう(まあそもそもディズニー映画なのだが)。

 

「家族や恋人など仕事のための犠牲にするのは当然」と考えるマッチョな男どもは共感出来るところがないだろう。また多様性を認めない男どもは真実のキスが女性同士のものであるということに違和感を感じる人もいるだろう。

 

正直言って男である僕からすれば野心を選んで国王となった男への仕打ちがひどすぎると思う。涙を呑んで恋心を捨てて(この描写はしっかりと映画のなかにはある)野心を選んだ男をそこまでヒールにする必要があるのだろうか。

愛を選ぶ多様性と同様、野心を選ぶ多様性もあって然るべきである、と思う。

 

となるとこの映画はポジティブ・アクションの一つのなのかもしれない。

男的とされてきたものから女的とされてきたもの(男から女ではない)への移行。仕事、野心が第一とする旧弊な考え方から平和、愛情といった枠組みへの転換。

 

旧弊な男性諸君、もう少し待とう。仕事、野心といったものへの再度の揺り戻しを。

そんな旧弊な人がいても良いとは個人的には思う。  

 

と、考えてきたが、そもそもこんなオシャレ映画を分析して考えてしまうところが女心を分かっていないということなのかもしれない。やだやだ。

シーシュポスの神話

 

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

 

高校の時くらいからいつか読めるようになったらいいな、と思っていた。なんせ題名が格好いい。大人になったら読めるのかな、と。

しかしいくら歳を重ね大人になっても読める気がしない。ここらへんで諦めて読む。

 

むむ、むずかしい。これからいくらか感想やまとめを書き連ねるつもりだが、ほぼ100%誤読である。

この本について確実に言えることは、誤読しているということだけである。

しかし夢は無意識の表れとフロイトが言っているように、言い間違いにこそその人の本音が表現されるように、誤読にも今の僕の無意識や本性、少なくとも現段階での読解力の限界が表現されているだろうことから記録として残すことにする。

これだけ言い訳すれば恥ずかしくない。

 

生きることの不条理についての考察である。

冒頭に哲学の根本問題は自殺の問題のみ、と言い切っている。不条理なこの世界が生きるに値するかどうかのみだと。

僕だってバッパラパーではない。悩みの1つや2つや3つあるし、「こんなしょうもない人生意味あるのかしら」と人並みには考えた事がある。

しかし僕が自殺について考えるのは人生が上手くいかないときだけである。

その他の時期は上機嫌で、自分ほど上手く人生を楽しんでいる人間はいないと考えている。そんな時は人生の意味なんて、ましてや自殺なんて考えない。

 

カミュは違う。カミュは流されることを何より好まない。カミュの考えで最も大事な概念、それは「意識的反抗」である。人生は無意味であるが、そのことによって精神を麻痺さることなく、意識し続けることによって運命に対して反抗心を持ち続けること、こんな意味になろうか。

 

シーシュポスとは神話に登場し、運び上げては落ちる岩をまた運び続けるという永遠の罰を受けている、まさに不条理の象徴のような男である。シーシュポスがなぜそんな罰を与えられたかもはっきりせず、そこもまた不条理である。

カミュがこの不条理の中に光を見出すのは、転がり落ちてしまった岩を何度も何度も下まで取りに降りていく時のシーシュポスの明徹な視力である。

不条理ながらも、明徹な目を持ち、その仕事を再度その身に引き受けるために降りていく。ここにこそ、不条理への勝利を見つけ出すのである。

 

卑近な例、例えば自分たちに置き換えてみると、仕事の帰り、電車に揺られ家路に着くときあろうか。明日出勤するために家路につく。永遠に繰り返す不条理を感じる瞬間である。

いや違う。電車の中の僕に明徹な視力はない。腑抜けているか、酩酊しているかだ。

絶望的な瞬間において意識的でいること、不条理の中から不条理を汲みつくすこと。それが勝利である。カミュは常に目の醒めていることを望む。

 

 カミュの言う勝利に至る道筋を確認しよう。

まず倦怠がある。人生に倦むのである。そしてこの時期に僕たちは不条理の意識を感じ始める。ここまでは僕にでもある。

その後、人間が選ぶべき道が二つある。自殺か自己再建か、である。

僕がいずれの道も選んでいないとすれば、それは意識的では無くなったからであろう。精神を麻痺させるか、麻痺させられているか分からないが、倦怠を味わう意識すら無くなっているということだ。

 

カミュはそれを許さない。倦怠を意識し、不条理を感じつつも決然と歩き始めること。不条理のみが世界と人間を密着させているのである。明瞭に人間が識別できるのは不条理だけなのである。

意識的でなくなることは一見不条理を感じることない訳であり、勝利のようにも見えるが、しかし人間は不条理なくして世界を感じえない。不条理無くして生の実感は無いのである。

その不条理をどれだけ味わえるか。自分を押し潰すものであるにもかかわらず、唯一の生きている実感であるものをいかに守り抜き、尊重できるか。

自分の生を、反抗を、自由を、どれだけの量を感じることができるか。多く感じるためにはどれだけ意識的でいられるか。

 唯一確かなものである不条理を精一杯味わうこと、それのみが勝利である。

 

少しはまとめられただろうか。

しかしカミュが難しいことをぐだぐだ言い続けたり、面倒臭い言い回しをしていること自体がこの本の大事なところである気がする。つまり自分で読んだほうがいい。

 

 

ぼくらは思考の習慣よりまえに生きる習慣を身につけているのだ。(p19)

思考の塊のような人なのに、思考すること自体を客観視しているところがグッド。

 

 倦怠それ自体にはなにか胸のむかつくものがあるのだが、ここでぼくは、倦怠とはよいものだと結論しなければならぬ。なぜなら、いっさいは意識からはじまり、意識の力によらなければ、なにものも価値をもたないからである。(p28)

 まず倦怠が始まりである。倦怠を感じるということは意識の力を持ったのであり、次には日常への無意識的な回帰か、決定的な目覚めかどちらかを惹き起す。更に決定的な目覚めの後には、自殺か自己再建かの結論に至る。

常に意識的でなければすぐに流されていく日常に逆戻り。

 

不条理が世界と人間とをたがいに密着させている。先行きがどうなるかわからぬぼくの生がつづけられているこの途方もない宇宙のなかで、ぼく明晰に識別できるのはこれだけなのだ。(p43)

途方もない宇宙の中で明晰に識別することがあるという希望、しかしそれが不条理というものであることの絶望。不条理は希望と絶望。

 

人間はつねに自分が真実と認めたもののとりこになってしまうということだ。なにかをひとたび真実と認めてしまうと、人間はそれから自由になれない。(p59)

この文章は真実であろう。問題はこの文章を認めながらも自由になることだ。

 

自分の人生になにかひとつの目的を思い描いているかぎり、かれは目的を達するのに必要なことをしようと従順で、自分の自由の奴隷になりつつあったのだ。(p102)

 目的を達するのに従順なことは通常良い事とされるし、「自分の自由の奴隷」といった言い方はしない。

しかし目的のために何かをする、という考え自体が囚われの思想である可能性もある。既成概念が剥がされていく。

 

 意志は意識をささえつづけようとする、ただそれだけだ。意志は生の規律を提供するのだ。-ところで、じつはこれだけでもかなり重要なことなのである。(p111)

意志の役割は意識的であり続けさせることだけである。

カミュは意識的であることが全ての始まりであると語ると同時に、多くの人々が意識的でないことを見抜いている。

 

愛についてぼくの知るところは、ぼくをあるしかじかのひとに結びつけるあの欲望と優しい感情と知力の混じりあったもの、ただそれだけだ。しかも、この組成は別のひとが相手になればもう同じではない。こうした経験のすべてに愛という同じ名称を冠する権利はぼくにはない。(p131) 

 愛が欲望と優しい感情と知力の混じり合ったもの、だけであるかどうかはこの際おいといて。

カミュが明晰に見るということはここまで見るということだ。愛は感情の組成であるし、別の物を対象にすればもう組成は変わってしまう。異なる組成のものを同じ愛という言葉で表現することは出来ない。

これは峻烈な批判である。いかに言葉を無意識的に使っているか。世の中例えば愛が溢れすぎている。

 

ひとは、口に出して語ることによってよりも、口に出さずにおくことによって、いっそうそのひと自体である。(p151)

 この言葉、含蓄ありすぎ、カッコ良すぎ。

「言わなければいいのに」言っちゃう人いる。「言わなければいいのに」言っちゃうことがある。同様に「しなければいいのに」してしまうこともある。

口に出すことは制御可能であるが、口に出さないでいることのコントロールは困難である。よってその人自体なのである。

 

こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず不条理だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。(p213)

悲劇的であることが悪ではない、無意識であることが悪である。何度でも言って下さる。

 

本当はふつうに映画の話をしたかった

今週のお題「ふつうに良かった映画」

 

ブログぐらい書きたいこと書きたいのに、ここでも与えられた無茶なお題に悩んでしまうとはこれ如何に。

まあ頭を捻る練習ということにしよう、そうしよう。

 

悩ましい題だ。ふつうなのか?良かったのか?

「ふつうに良かった」というのは日本語として矛盾しておりよって解なし、と言うことも可能である。でもそれではこのお題を出した人物の思うつぼ、反骨心から「ふつうに良かった映画」をしっかり選びたい。僕は降参しない。

 

「ふつうに良かった」とは普段から使う言葉である。おそらく日本語として流通し、認められている。

 

では「ふつうに良かった」とはどういう意味なのか? まず最初に映画の評価に関する言葉であると考えられる。

映画の評価としての言葉は大別して「良い」「ふつう」「悪い」の3種類であろう。

「ふつうに良い」というのは2つの評価を同時にしており矛盾している。それは「良いけど悪い」や「悪いけど良い」と同じ意味合いである。「普通と良いの中間」というのはかろうじて理解できるが、その場合はそう言う。

 

とするとこの場合の「ふつうに良い」というのは評価に関する言葉ではないのか?しかし「良い」は評価の言葉以外には考えられず、つまり「普通」という言葉が映画の評価を表していないということが考えられる。

 

ではこの場合の「普通」とは何を表しているのか?行き詰った。

ここは辞書を引いてみよう。三省堂国語辞典より。

 

①<どこにでも/いつでも>あって、めずらしくないこと。

特殊の反語語。珍しくない良さ、これはきっと良くないしおもしろくない。これではない。

 

②取り分けた一部を除く、大部分のもの。一般。

特別の反対語。一般に良い。これは何となく意味が通る。普通民にはおもしろい、一般受けするといったところか。

しかしこの用法で使ってしまうと「何様?」となってしまうし、こんな意識で言っている訳ではない。少なくとも僕は違う。

 

③特にかわったところがないこと。いつもどおり。

特にかわったところがない良さ。それは特に良くない。

 

④<よくも悪くもない/極端でない>こと。中ぐらい。

これは最初に検討した評価に関する使い方。最初によくも悪くもないと言ってしまっている。「良い」と矛盾する。

 

⑤a.べつに変なところがなく。とても。b.当然(であるかのように)。

これだ!⑤のaだ!つまり「とても良い」だ!「ふつうに」は映画の評価ではなく、「良かった」を強める役割を果たしているだけなのだ。

 

しかもわざわざ[⑤は、二十一世紀になって広まった言い方]とまで注がある。

遊びで調べたら思いのほかすっきりして感動してしまった。

辞典は最新のものを買うべきだと今思った。

 

これでやっとお題に答えられる。つまり「とても良かった映画」ということ。

うーむ、しかしこれはこれで難しい。 降参します。