<問い>の問答
<主体的である>とは、<ある言語を、ある使い方によって使う>ということ(p68)
答えを求めてこの本を読んでも無駄である。問いが増えるだけである。
しかしその問いの状況こそが、つまり問いのみの不安定な状態こそが人間である、という認識には救いがある。ずっと不安定なまま生きていくのが人間である。不安定だからこそ動き出すことができるのだ。
本文中に煩悩が無ければ発心しない、という言葉があるが、つまり不安な不安定な状態からがスタートであるということである。まず冷徹に不条理を感じることが重要と言ったカミュも同じような意味を感じる。
安心するために凝り固まるのではなくて、不安定で居ていいし、不安定で居ようと思う。
南直哉さん、この方がなんとなく気になる。詳しくは知らない人だが賢そうだ。
精神的に参った時にこの方の写真を見ると、こんな賢そうな人でも悩んでいるんだな、と何だか救われる。
本を読んでみると答えは無くても、方向性は合っているかもしれない、そう思わせてくれる。何言っているか分からないけど、少しでも近付きたいから本を読む。
二人の言葉へのこだわりは非常に厳しい。
それは重要なことは言葉では伝わらない、と言いつつも言葉によって伝えざるを得ない禅僧の覚悟である。
言葉に出来ないものを誤解や甘さを含めて自分の責任として絞り出す、そんな姿勢が眩しすぎる。それに比べて自分の言葉がどれだけ散漫で上滑りしているか。
難しい仏教の話には置いていかれるが、こんなストイックな方がいるということ、また僕が知らないだけでストイックであろうとしている禅僧が他にもいるのだろうということを知ること、それだけでも有り難い発見である。
死者というもののリアリティが、ひょっとするとある人にとっては、現実よりも高いということです。(p23)
死者の影響なんて存在しない、と科学的に言うことは出来る。しかし、実際に死者の影響の方が大きいと「感じる」ことは否定できない。それを感じている人には現実でしかないのだから。
それを分かったような顔して、死者は存在しないとか、逆に存在するとか語ることの危うさを繰り返し訴えている。ブッダはその危うさを知っていたがために死者やあの世については口を閉ざしていたのだという。
答えないことでしか答えられない。正直であるが力強くはない宗教だ。答えを与えてくれない宗教。
<生きる>ということのもっとも大きな力は、「アンバランスさ」だと思うのです。つまり、根本的にアンバランスだから動いていくのであり、それが<生きる>ことなのです。バランスがとれたら止まるに違いありません。(p84)
不安定で良いのだ、というか根本的に不安定が人間なのだという救いの言葉。右に左にとだるまさんのように揺れていようと思う。
「ネットワーク」とか「コミュニケーション」という言葉に対して抵抗を感じるのは、「個が先にある」と考えているからです。そうではなく、じつは「繋がりが先にある」わけですよ。そして、そこに個が立ち上がる。(p116)
繋がりの中にこそ立ち上がる個。日本の哲学は元来こんな考え方を持っていたと読んだような気もする。
関係性が無ければ自己も他者もない。右が無ければ左がないのと同じで単純なこと。でもすぐ忘れちゃって「右手は右手」「自分は自分」て思ってしまう。
あなたがいなければ、もう僕は僕ではない。そう思って人や物と接しよう。出来るところから。
みんな修行僧の目は綺麗だ、綺麗だと言い、私も実際そう思います。それと同様に、いわゆる新興宗教にスポーンとはまった人間も、同じ顔をしているんですよ。それは、<自分がやっていることや自分が置かれている状況をまったく疑ったり考えたりしない人間の顔>だと思うんです。それはとても楽ですよね。(p277)
「悟る」って修行僧の綺麗な目になることだと思っていたけど違うのか。答えを与えられるのではなく、起点として問い出すこと。そこからがしんどいのか、なるほど。
<笑う>というのは、バカにしているわけではない。二人が顔を合わせ、「あははは」と笑っているときには、自分たちの言っていること、あるいは自分たちがいる場所を、<どこからか別に見る力>が、つねにはたらいているのだろうと思います。(p303)
気持ち良く笑った時は気が楽だ。それをどこからか別に見る力が働いているというのは言い得て妙だ。
気持ち良く笑わない時もある。その時は嘲笑や冷笑なのかもしれない。その時は遠くに行けず、妬み嫉みの感情から抜け出せない気がする。
気持ち良く笑って一次元上がって見る。難しい話しながらも難しい顔してないで笑おう、っていう技術的なところも禅の魅力だなあ。