シーシュポスの神話
高校の時くらいからいつか読めるようになったらいいな、と思っていた。なんせ題名が格好いい。大人になったら読めるのかな、と。
しかしいくら歳を重ね大人になっても読める気がしない。ここらへんで諦めて読む。
むむ、むずかしい。これからいくらか感想やまとめを書き連ねるつもりだが、ほぼ100%誤読である。
この本について確実に言えることは、誤読しているということだけである。
しかし夢は無意識の表れとフロイトが言っているように、言い間違いにこそその人の本音が表現されるように、誤読にも今の僕の無意識や本性、少なくとも現段階での読解力の限界が表現されているだろうことから記録として残すことにする。
これだけ言い訳すれば恥ずかしくない。
生きることの不条理についての考察である。
冒頭に哲学の根本問題は自殺の問題のみ、と言い切っている。不条理なこの世界が生きるに値するかどうかのみだと。
僕だってバッパラパーではない。悩みの1つや2つや3つあるし、「こんなしょうもない人生意味あるのかしら」と人並みには考えた事がある。
しかし僕が自殺について考えるのは人生が上手くいかないときだけである。
その他の時期は上機嫌で、自分ほど上手く人生を楽しんでいる人間はいないと考えている。そんな時は人生の意味なんて、ましてや自殺なんて考えない。
カミュは違う。カミュは流されることを何より好まない。カミュの考えで最も大事な概念、それは「意識的反抗」である。人生は無意味であるが、そのことによって精神を麻痺さることなく、意識し続けることによって運命に対して反抗心を持ち続けること、こんな意味になろうか。
シーシュポスとは神話に登場し、運び上げては落ちる岩をまた運び続けるという永遠の罰を受けている、まさに不条理の象徴のような男である。シーシュポスがなぜそんな罰を与えられたかもはっきりせず、そこもまた不条理である。
カミュがこの不条理の中に光を見出すのは、転がり落ちてしまった岩を何度も何度も下まで取りに降りていく時のシーシュポスの明徹な視力である。
不条理ながらも、明徹な目を持ち、その仕事を再度その身に引き受けるために降りていく。ここにこそ、不条理への勝利を見つけ出すのである。
卑近な例、例えば自分たちに置き換えてみると、仕事の帰り、電車に揺られ家路に着くときあろうか。明日出勤するために家路につく。永遠に繰り返す不条理を感じる瞬間である。
いや違う。電車の中の僕に明徹な視力はない。腑抜けているか、酩酊しているかだ。
絶望的な瞬間において意識的でいること、不条理の中から不条理を汲みつくすこと。それが勝利である。カミュは常に目の醒めていることを望む。
カミュの言う勝利に至る道筋を確認しよう。
まず倦怠がある。人生に倦むのである。そしてこの時期に僕たちは不条理の意識を感じ始める。ここまでは僕にでもある。
その後、人間が選ぶべき道が二つある。自殺か自己再建か、である。
僕がいずれの道も選んでいないとすれば、それは意識的では無くなったからであろう。精神を麻痺させるか、麻痺させられているか分からないが、倦怠を味わう意識すら無くなっているということだ。
カミュはそれを許さない。倦怠を意識し、不条理を感じつつも決然と歩き始めること。不条理のみが世界と人間を密着させているのである。明瞭に人間が識別できるのは不条理だけなのである。
意識的でなくなることは一見不条理を感じることない訳であり、勝利のようにも見えるが、しかし人間は不条理なくして世界を感じえない。不条理無くして生の実感は無いのである。
その不条理をどれだけ味わえるか。自分を押し潰すものであるにもかかわらず、唯一の生きている実感であるものをいかに守り抜き、尊重できるか。
自分の生を、反抗を、自由を、どれだけの量を感じることができるか。多く感じるためにはどれだけ意識的でいられるか。
唯一確かなものである不条理を精一杯味わうこと、それのみが勝利である。
少しはまとめられただろうか。
しかしカミュが難しいことをぐだぐだ言い続けたり、面倒臭い言い回しをしていること自体がこの本の大事なところである気がする。つまり自分で読んだほうがいい。
ぼくらは思考の習慣よりまえに生きる習慣を身につけているのだ。(p19)
思考の塊のような人なのに、思考すること自体を客観視しているところがグッド。
倦怠それ自体にはなにか胸のむかつくものがあるのだが、ここでぼくは、倦怠とはよいものだと結論しなければならぬ。なぜなら、いっさいは意識からはじまり、意識の力によらなければ、なにものも価値をもたないからである。(p28)
まず倦怠が始まりである。倦怠を感じるということは意識の力を持ったのであり、次には日常への無意識的な回帰か、決定的な目覚めかどちらかを惹き起す。更に決定的な目覚めの後には、自殺か自己再建かの結論に至る。
常に意識的でなければすぐに流されていく日常に逆戻り。
不条理が世界と人間とをたがいに密着させている。先行きがどうなるかわからぬぼくの生がつづけられているこの途方もない宇宙のなかで、ぼく明晰に識別できるのはこれだけなのだ。(p43)
途方もない宇宙の中で明晰に識別することがあるという希望、しかしそれが不条理というものであることの絶望。不条理は希望と絶望。
人間はつねに自分が真実と認めたもののとりこになってしまうということだ。なにかをひとたび真実と認めてしまうと、人間はそれから自由になれない。(p59)
この文章は真実であろう。問題はこの文章を認めながらも自由になることだ。
自分の人生になにかひとつの目的を思い描いているかぎり、かれは目的を達するのに必要なことをしようと従順で、自分の自由の奴隷になりつつあったのだ。(p102)
目的を達するのに従順なことは通常良い事とされるし、「自分の自由の奴隷」といった言い方はしない。
しかし目的のために何かをする、という考え自体が囚われの思想である可能性もある。既成概念が剥がされていく。
意志は意識をささえつづけようとする、ただそれだけだ。意志は生の規律を提供するのだ。-ところで、じつはこれだけでもかなり重要なことなのである。(p111)
意志の役割は意識的であり続けさせることだけである。
カミュは意識的であることが全ての始まりであると語ると同時に、多くの人々が意識的でないことを見抜いている。
愛についてぼくの知るところは、ぼくをあるしかじかのひとに結びつけるあの欲望と優しい感情と知力の混じりあったもの、ただそれだけだ。しかも、この組成は別のひとが相手になればもう同じではない。こうした経験のすべてに愛という同じ名称を冠する権利はぼくにはない。(p131)
愛が欲望と優しい感情と知力の混じり合ったもの、だけであるかどうかはこの際おいといて。
カミュが明晰に見るということはここまで見るということだ。愛は感情の組成であるし、別の物を対象にすればもう組成は変わってしまう。異なる組成のものを同じ愛という言葉で表現することは出来ない。
これは峻烈な批判である。いかに言葉を無意識的に使っているか。世の中例えば愛が溢れすぎている。
ひとは、口に出して語ることによってよりも、口に出さずにおくことによって、いっそうそのひと自体である。(p151)
この言葉、含蓄ありすぎ、カッコ良すぎ。
「言わなければいいのに」言っちゃう人いる。「言わなければいいのに」言っちゃうことがある。同様に「しなければいいのに」してしまうこともある。
口に出すことは制御可能であるが、口に出さないでいることのコントロールは困難である。よってその人自体なのである。
こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず不条理だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。(p213)
悲劇的であることが悪ではない、無意識であることが悪である。何度でも言って下さる。