レシーバー同好会

攻めろ戦えとハッパをかけられる事が多いが、本当は守るほうが好き。スマッシュやアタックよりレシーブにゾクゾクするあなた、気が合うかも知れません。ちなみにスポーツはしていない。

超訳 古事記

 

超訳 古事記

超訳 古事記

 

  にっぽんは 思っていたより やおよろず

 

八百万の意味、舐めてました。

樹とか、石とか、トイレとか、なるほど神様がいそうなところに神様はいると思っていた。まさか大便小便から神様が生まれ、顔を洗えば右目から生まれ、左目から生まれ、鼻の下から生まれ、溺れて死ぬ時には水の上部、中部、下部から神様が生まれるとは。

日本の神々がこんなに清濁併せ飲むものとは知らなかった。僕の感覚ではグロテスクであったり残虐であったりもする。キレイ事ばかり言ってないところが味噌なんだろう。

日本の神々がそもそもこんな寛容ならば他の宗教ですらいくらでも受け入れてきたのにも納得できる。良く出来た宗教なんだなあ、と感心する。

 

なぜ今まで読まなかったのだろう。神話を読んで思い出すのが手塚治虫の『火の鳥』やテレビゲーム『ペルソナ』というのがサブカル日本を感じる。

ストーリーこんな面白いんだからマンガとか絵本とかでももっと出たら良いのに。もう少し古事記調べてみよう。

 

千年以上も昔に纏められた書物であるが、人間を描くモチーフは変わらない。嫉妬、不倫、マザコン、いじめ、兄弟喧嘩、駆け落ち、疑心暗鬼。

こんな永遠のテーマを世代論や現代の病理として解決しようなんて浅はかである。これらは千年来の悩みであり、これからも悩みである。

こんな悩みなんて人間が千年も前から悩んでるんだなあ、と視野を広げることによってのみ、悩みに悩むことから人を救うのかもしれない。

 

初めて読むのに、感覚的に納得できるところがあるのが面白い。

四国は阿波と伊予は女神、土佐と讃岐は男神って確かにそんな感じする。

ちなみに四国が出来たのは日本で二番目、最初に出来たのは淡路島。本州が出来たのは最後である。天孫降臨した出雲もそうだけど、古事記で重要なところって現在結構地味な印象。

京都とか奈良とかより断然歴史ある訳なので、ひとごとながらもう少し胸張っていいと思う。それとも淡路島や隠岐の人々は「また新参者の本州がはしゃいでるわ」くらいのスタンスで見ているんだろうか。それなら愉快だ。

 

 

生きる ということは

産霊の 神々から始まる

神々の 生成化育する体を

わが身の個体に 取り入れる ということ なのである(p35)

 周辺にあるもの全て八百万なのであり、食物だって当然神々の体なのである。

残すともったいないとか、飢餓の国の人々に申し訳ないとか、頭で考える前に神様を取り入れているという感覚があれば丁寧に扱うようになるだろう。

古いけれど、とても斬新な考え方に思える。

街場の戦争論

 

街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)

街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)

 

 内田先生の本を読み始めたのはここ1年くらいだが、その影響力は半端ではない。

「辺境ラジオ」をポッドキャストで聞いたのがきっかけだが、めちゃくちゃおもしろい。内田先生と精神科医の名越先生、そしてMBSの西アナウンサーがただただお喋りしてあれこれ解説していくのだが、3人の話がなぜこんなに腑に落ちるのか。

これが腑に落ちるということか、と腑に落ちるの意味が腑に落ちたくらい腑に落ちた。

特に内田先生の知性とたまに出現する茶目っ気と優しい語り口がたまらない。

とにかく聴ける人は初回だけでも聴いた方がいい。最初の「ハエの話」からもう興奮する(本も出ているがラジオおすすめ)。

 

会ったことも動いている姿を見たこともない内田先生に勝手に先生とつけている。「私淑」という概念ですら内田先生の本で知ったであり、その影響は計り知れない。直接お話しを聞いてみたいものだ。

ということで、お分かりとは思うがこの感想には多分にバイアスがかかっている可能性があります。

 

日本の戦後の検証、現状分析、そして詳細な未来予測がこの本の主題。

その他に人間観、仕事観、教育観、組織観が散りばめられており、内容は硬派。なのにサクサク読んでしまうのは、筆力と語り口に加えて、最初にラジオで声を聞いたというのがあるのではと思う。

 

現在は戦争に向かう間戦争期であるとしてこの本を出版されたのが昨年10月。

わずか4ヵ月だが事態は大きく変わっている。内田先生が詳細に予想するような未来はまだ訪れていないが、向かいつつあることを感じる。

戦争はなぜ起こるのか、日本はなぜ負けたのか、負けて日本人は何を失ったのか、日本はなぜまた戦争に向かいつつあるのか、ということはどんな意見の人でさえ考えておくべきことだと思う。

 

 

僕たちが敗戦で失った最大のものは「私たちは何を失ったのか?」を正面から問うだけの知力です。あまりにもひどい負け方をしてしまったので、そのような問いを立てる気力さえ敗戦国民にはなかった。(p27)

何を失ったか、という問いは断絶からは生まれない。失ったものは今はないため分からないのだから。

戦争を生き延びた人はいたのだから、そんなに断絶することはないと考えていたが、そんな問いを立てる気力さえ無いほど負けたのだとしたら。そして断絶を知っている人々が現在ほとんど亡くなっているのだとしたら。もう想像力によって補うしかないのか。

この文章だけでも既成概念が揺らぐ。

 

敗北の検証が自力ではできないくらい負けた。(中略)負けたあとに、原因を検証できる能力がないくらいに徹底的に負けた。(p48)

「植民地になっていないし、経済成長しているし、長い目で見たら勝っているじゃなないか」と思ってしまうほど負けたということか。

戦前の日本人と今の日本人との勝ち負けの概念が変わるほど負けた、ということだと思う。

 

戦争をしている政府に私が反対であろうとも、その『くに』が自分のもとであることにかわりはしない。(…)この国家は正しくもないし、かならず負ける。負けは『くに』を踏みにじる。そのときに『くに』とともに自分も負ける側にいたい、と思った。(p63)

 小林秀雄の戦中の言葉。

「政府」と『くに』、正しくないものと温かいものの対比。感覚的に良く分かる表現。

ここには『くに』に対する断絶はない。『くに』の責任を引き継ごうとする、継続の意思がある。

 

もし自分たちのことを大日本帝国臣民の正統な後継者であると思っているのなら、祭神である死者たちに深い結びつきを感じているつもりなら、死者たちに負わされた「責任」の残務をこそわがこととして引き受けるはずです。(p78)

靖国参拝に対する意見。

戦争を起こした人の責任を負う、ということで結びつきを感じるなら参拝する値打ちも分かる。先祖の謝罪は済んでいるからもう謝罪の必要はない、と結びつきを否定しようとする人ほど結びつきを感じているように見える不思議。確かに。

 

「敗れて滅びる」という選択肢も含めて、日本人は自分の運命を決めることができた。日本人は一九四五年まで自己決定できた。今はできない。(p90)

マンガでよく、負けた者は死に方すら選べない、って出てくる。

どうせ死ぬんだから死に方なんてどうでもいいんじゃない、て思ってしまうほど飼いならされているのかもしれない。愕然。死に方を含めて生き方の権利を差し出しても何も感じない、それは独立した人間でないのかもしれない。

 

「奴隷精神を持つとは、命令されても不快に感じなくなること、命令され得なくなることを言う。主人に対する愛が閾値を超えると、奴隷の魂は主人の魂との間に距離を取れなくなる。」(p102)

内田先生の先生、レヴィナスの言葉。

命令され得なくなること、それが奴隷精神。恐ろしいけど思い当たる節は沢山ある。沢山あるけど普段は見えない。

 

まず人間です。どういう人を範例的な「おとな」として事故陶冶のロールモデルに掲げるのか。それが最終的には国民性格を決定し、国のかたちを決定する。(p111)

 哲学や文学といったいわゆる文系が蔑ろにされている感はある。

理系は文系のなり損ねではない、国の形を作るロールモデル作りの一翼を担っているのだ、と文系人間の僕は溜飲を下げる。

どんな人になりたいか、もっと正直に「人間」の話をしよう。

 

 国民たち自身が自分たちの政治的自由を制約し、自分たちを戦争に巻き込むリスクが高まる政策を掲げる内閣に依然として高い支持を与え続けているのは、「民主性や立憲主義を守っていると経済成長できないから、そんなもの要らない」と思っているからです。(p142)

「いやいや先生、それは言い過ぎじゃないの。戦争のリスクと経済成長をトレードするなんて」と思ったけど、確かに「当然経済成長だろ」と言いそうな人いる。

そしてそれが支持率の原因なのか?それならまた愕然。

 

株式会社は経済成長しないと生きていけない、右肩上がりのモデルの中でしかいきてゆけない生物なのです。(p161)

内田先生は日本の病理の原因の一端を株式会社というマインドに求めます。非常に腑に落ちる理論だと思う。

ほとんどの人が株式会社しか組織を知らず、そして株式会社はこんなにも成功を収めてきた。(経済成長が見込める時代ではないが)なんとか株式会社を存続させねばならない、という論理から病理の多くは生まれている。

株式会社を廃止は出来ないが、主流は変わるべきな気はする。人類ずっと株式会社システムでやってきた訳ではなし、戦争とか過労死とか出してまでそんな無理して守るべきものではなし。

 

どうしても経済成長したければ、それまで国民資源として、無償かそれに近い低コストで享受できていたサービスを商品化して市場で買うほかないようにするのがもっとも安直な方法なのです。(p250)

景気を良くするためにお金を遣う、という発想にどうしても馴染まない。遣いたいから遣うんであって、経済が回るからっておかしい。貯蓄しても回る経済やお金を遣っても生きていける社会を考えるべきでは。

経済成長率を指標にする限り、物々交換、自給自足、親の介護、家事労働などの金銭の支払いが発生するしないものは推奨されない。ビジネス、外食、介護産業、ハウスキーパーが推奨される。

推奨されないもののほうに惹かれてしまう僕はこの国に貢献できないのではないか。

 

 「ゆるい」環境を用意しておくと、危機的状況におけるリーダーに遭遇する確率は高めることができる。(p274)

リスクヘッジについて。

リスクを数える手法には限界があり、本当の危機は予想外である。その時には平時に役に立たない人間を束で置いておくと役に立つかもしれない、クールに見えるが愛情溢れる話。

内田先生はバカにも役割を与えてくれる。

 

 

引用多すぎて疲れた。残しときたい気持ちはあるけど考えないとしんどい。

 

この本でもミシマ社の三島さんの名前が何度も出てきたり、建築家の光嶋さんの名前が出てきたり、若い人と仲良いんだなあ、という感じがちょくちょく溢れている。

こんなおとなになりたい。

そうだ古典を読もう

「そうだ古典を読もう」キャンペーン、始まる。

 

これまでの読み方とは違う読み方として、古典を一冊手元に置いて、長い時間をかけてゆっくりじっくりとうんうん言いながら読む、そんな楽しみ方を身につけたい。そんな思いが突然湧いてきたのです。

 

キャンペーン概要はこんな感じ。

①古典とは何か?何を読むか?岩波文庫か、著者が死んでいるものか、100年以上経っているものか?

いや、とりあえず古そうなもので行く。そこはざくっと古そうなものということで。

選定基準も特になし。研究者じゃないから体系づけなくてもいいし、時代もどうでもいいし、気になるもの、題名が格好良いものを読んでいく。

②いつもは図書館の利用が多いがキャンペーン該当図書は買う。

文庫や新書になっているし場所をとらない、読むのに時間がかかるからそんなに量を買わない、古本屋に行けば100円で買える。空間的、金銭的にもそんなに負担はない。なにしろ書き込みやアンダーラインが引けるのは魅力だ。

 

第一回分は読了。本の感想は後ほど書くとして。

予想通り、時間はかかるし僕には難解でよく訳が分からなかった。しんどかった。諦めようかと思った。

ただ予想に反したことに、面白いというか、本に引き込まれる瞬間が何度かあった。

いや、それでも内容は全然頭に入ってこないし論理的に追うことは出来ない。ただ頭のモーターがががっと起動してくるのを感じるだけだ。

突然本から「ここはもう一度読んでおけ」と命令を受ける箇所がある。それは無意識に引っ掛かっている、としか言えない。だって理解出来ていないのだからどこが重要か、面白いかなんて分からないんだから。

 

ここでもまた内田樹さんの言葉を思い出す。「学びに入る前に先生の価値は測量出来ない」というような意味のことをおっしゃっている。

なるほど、それはそうだ。分からないから弟子につくんであって何を教えてくれるか、何が出来るようになるか、は数字や言葉で分かるものではなく、なんか凄そうだ、この人についていってみたい、という直観をまず働かせるしかない。

本も同じだと思う。これが書いてある、とまとめの本で分かってしまった本は読む必要が無い。

まとめの本では良く分からないが、難しそうだし辞めておこう、という本は読まない。

まとめの本でも分からない、少し読んだが分からない、けどなにか凄いことが書いてありそうだ、読みたい、という直観のもと、弟子に入るような気持ちで読み始めるしかないのだろう。

しかし直感だけ、というのはあまりにも曖昧で、人生は短く、指針は欲しいところであり、そこで時間のフィルターを経てきた古典を読みたくなったのかもしれない。

 

まあ思ったよりこのキャンペーンは楽しそうだ。

挫折しながらも、細々と長く続くよう祈っている。

 

 

 

仕事の小さな幸福

 

仕事の小さな幸福

仕事の小さな幸福

 

 穏やかなインタビュー集である。それは文末に享年を書けばお悔やみ欄のような穏やかさである。静かに丁寧にその人の言葉を辿っている。

インタビューを受ける人が皆穏やかな訳ではないだろう。新進気鋭の作家、スポーツ選手、プロポーカープレイヤーまでいる。

インタビュアーである木村さんが穏やかな側面、小さな幸福に目が行く人だから、一貫して穏やかな空気が流れているのだと思う。

 

木村さんを知ったのは『善き書店員』という本。

脅しのようにアピールをしてくる本が並ぶ中、『善き書店員』は題、装丁、テーマとも逆に際立っており手に取らざるを得なかった。まだ読めていないが、きっと少しの時間で風化するような本でもないだろうし、ゆっくり読もうと思っている。

 

インタビューを受けている半分以上の人の顔を知らなかった。この本の構成として、最初に年齢、性別が分かり、インタビューを読み進めるうちに顔写真が出るようになっている。どんな顔の人か想像しながら読み、答え合わせをしながら自分の人を見る目の無さに苦笑するのも楽しいかと思う。

 


「あ、人って、ほんとうに世の中のほんの一部だけを味わって、取り組んで、死んでいかざるを得ない存在なんだな」とどこかであきらめもついたんですね。(p18)

クリエイティブ・ディレクターの箭内道彦さんの言葉。本屋に入った時に感じた言葉だそうだが良く分かる。明らかに見極めるという意味でのあきらめ。

どんなに頑張っても本屋にある本のうち、読めて数千冊だし味わえて数十冊程度と思えるとそんなに物っていらないよなあ、とも思える。

 

だから、勝たなきゃだめって言うよりは、毎日何かには負けるというのが生きることじゃないか。負けた姿や痕跡が、それぞれのその人にしか作れない作品なんじゃないか。(p20)

これも箭内道彦さん。

人の勝った話より負けた話のほうが面白い。それは一つは意地悪な心によるのかもしれないが、それだけじゃなくて勝ち方より負け方の方が多様で独特で、それこそ作品のようなものだからかもしれない。

 

「何かをやりたいと思い、それが実現するときというのは、不思議なくらい他人が気にならない。意識のなかから他人という概念がそっくりそのまま抜け落ちて、あとはもう、自分しかいない。」(p23)

小説家、角田光代さん、『くまちゃん』の一節。

他人が気になるというのはおそらく自分を気しているということ。

他人の目があるからとか、評価されたいとか、そんな動機はやりたいと思うことですらないため実現しないのか。

 こんな清々しい仕事をしてみたい。

 

途中で人は死んでしまうかもしれない。だから、プロセスにこだわる、いい仲間と人事をつくして生き方を人に見せるというのが嘘のつけない強いメッセージになると思う。どう時間を使ったか、これは命そのものなので。(p82)

投資家でNPO法人理事長の慎泰俊さん。

時間は命を小分けしたもの、って誰かが言ってたような言ってなかったような。

「生き方を見せる」という言葉に覚悟を感じる。常に自分を律さねばならず、だからこそ強いメッセージを持つ。

 

中途半端に、おたがいに相手のいうことを「わかる、わかる」と言ってしまっていると、深いところでは意外と何も分かりあえていないまま、表面上でだけ、するすると順調に会話が進んでいくことになる。そんな、「わかったふり」の対話こそが、いちばん何も生み出さないですから。(p114)

経済学者、柳川範之さん。

これは本当反省。はいはいはい、あれね、知ってる知ってる、って言いがち。

細かいところまでちゃんと聴いて本当の対話せねば。

 

同じことをしていても、結果がうらやましかったら、はじめて人からうらやましいとされるに過ぎないんだなとわかってからなんです、何をしても、人がうらやましがろうがそうでなかろうが、自分が楽しけりゃいいんだ、仕事では自分の役割を果たしていればいいんだと思うようになったのは。(p140)

イラストレーター、ライターのきたみりゅうじさん。

他人は自分を四六時中見ているわけでなない。なので結果で判断するのは当然。その時が結果であれ途中であれ良ければうらやましがるし、悪ければバカにされる。

現状を結果なのか途中なのか知っているのは自分しかいない。

 

自分がこういう人間になりたいと思っていことが本心からのものなのかどうかさえ、わからない。人間は複雑なので、無意識のうちに誰かの願望をまねて自分自身のものと思いこむこともあるかもしれない……。(P189)

小説家、中村文則さん。

こういう事考え始めるとかなりしんどい。だって「思い込むこともあるかもしれない」と考えている自分だって思いこんでいるだけかもしれない。

考えるべきだとは思わないが、考えてしまう人の方があてどなくて悲しくて個人的には好感が持てる。僕も考えてしまう方であり、あてどなく悲しい。

 

 

インタビュー中に木村さんの姿は出てこないが、連続して読むことによって人となりが見えてくる。無色透明なガラスが重なることによってうっすら色が見えてくるような、そんな木村さんの仕事。

そしてこんなにもインタビューされた小説家の本を読んでみたいと思うことも珍しい。良い仕事をされる。

 

なぜ大型書店はワンフロアなのか?

いやいや答えなんて知りません。僕が知りたいんです。

しかしなぜだろうか?圧倒感があるから?建築費の問題?万引き対策?それとも慣習?

 

僕は本も好きだが、本を選ぶ時がもっと好きだ。

もっとも行く店は書店。自分の部屋で唯一きれいな場所は書棚。東京で観光に行くとすれば国会図書館

 

話逸れるけど、国会図書館はテンション上がるよね。

ほとんどの本は地下かどこかにしまってあって見えないんだが、日本で刊行される本がすべて収まっていると考えるだけでたまらん。

目録とか辞典は手に取れるところに置いてあるんだが、マニアックなものもあって、「せっかく頑張って作ったこの分厚い本は日本で100人にも読まれていないんじゃなかろうか?作った人も多くに読まれるとは思って作っていないんじゃなかろうか?」とか考えると、その本を作った人の情熱と狂気を感じてこれまたたまらん。

関西館も行ったけどまた素晴らしい。めちゃきれいやし。いやあほんま住みたい。

 

それはさておき。

本を選ぶ時、それは書店でも図書館でも公共な場で行われるが、かなり私的な行為だと思う。それぞれの人がそれぞれの本を手に持って集中し、頭をぐるぐる回転させ、あちこちで悲しみや楽しみの感情を感じている。公共の場において私的な空間が混じり合っているなと。

洋服屋のように話しかけらず没頭できるから本屋が好きだというのもある。

 

そんなせっかくの私的で濃い空間なら、ワンフロアではなくて小部屋に分けたら楽しそうという思いつきの話。

例えば理科の部屋、社会の部屋、小説の部屋、数学の部屋、悲しい部屋、楽しい部屋、夏の部屋、冬の部屋、漱石の部屋などなど雰囲気次第。内装なんて気にしなくても、同じテーマの本が並んでいれば空気感出そう。

こんな本屋あったら行きたいなあ。どっかにないかなあ。

書店の方、ご検討お願いします。

今思いついたけど廃校とか使ったらおもしろいんじゃない?(ほんま思いつき)

 

ついでに思い出したんだけど、図書館に昔貸出カードってあった。

貸出期日のゴム判が押されていくだけのカードだけど、学校で自分が最初のゴム判を押されたりする時には「この学校でこの本を読んだのは自分だけだ」と誇らしげに思ったり、前に借りた人が20年前だったら20年前のその人を想像したり、妄想が膨らんで楽しかった記憶がある。

図書館関係者の方、貸出カードの復活ご検討お願いします。

ホームレス農園

 

ホームレス農園: 命をつなぐ「農」を作る! 若き女性起業家の挑戦

ホームレス農園: 命をつなぐ「農」を作る! 若き女性起業家の挑戦

 

 まずは本の表紙を見て欲しい。

『ホームレス農園』という題とは似つかわない、美しい女性の写真である。

写真に惹かれ本を手に取ったという紳士も多いだろう。僕も多少はその一人だ。

しかし読み進めるにつれ、著者の印象は一変する。もうね、心が農家。そして武士。北海道を切り拓いた屯田兵、ブラジルに渡った開拓民だ。

 

農家の人手不足とホームレスの仕事不足。

これこそミスマッチであり、「農業とホームレス」の掛け合わせに思いを馳せた事ぐらいは僕だってある。

しかしなかなか行動は出来ない。思いを馳せるのと行動するのでは雲泥の差がある。

何が著者をここまで動かしたのか。これは起業の本であると同時に、一人の女性の仕事観について書かれた本である。

実現不可能と思われる課題と日々戦いながらもなんとなく自然体。これが今の企業家の理想像なのかもしれない。

 

 

丹精込めて育てた自慢の作物が、結局はその他大勢と一緒にされて箱詰め袋詰めにされ、しかも安価で売りさばかれてしまうのだ。これは生産者にとって悲しいし、悔しいし、空しいことだ。(P62)

 農産物の流通が抱える課題について。

農業に付加価値をつけるべし、と叫ばれる中、良品も粗悪品も一緒くたにされて売られる現実の課題がある。

ミスマッチを排し良い物を届けたい農家と良い物を食べたい消費者、それを繋ぎたいという思いが著者の根底にある。

 

生産者は自分が作ったものが誰の食卓に届いたのか、おいしいと喜んでもらえたかがわからない。(p63)

農家だって人間で、仕事を人に認めて欲しいし喜んで欲しい。

農家と食卓、それを繋ぐものがお金でしかないなら大量生産や経費削減へ流れいき、結果食品の不祥事が起こるのも当然かと思う。

そこで著者は現在の市場に乗せない流通の仕組みを作るようになる。

 

「そうだ!仕事を探しているホームレスの人たちがいるじゃないか!」

こう思い至ったとき、私は「うわっ、すごいパーフェクトプランを思いついたかも!農業界にも、日本の雇用にもプラスになるし、パーフェクトにいいじゃない!?」と気分が高揚した。(p74)

思いつく瞬間は誰でもあると思う。

ただ高揚も一瞬でその後困難さが次から次へと想起され、実現可能性は低そうだという判断を下され、忘れ去られていく。

そしてそのアイデアで少しでも人がビジネスチャンス得ようものなら自分も考えていたのだと悔しがる(僕だ)。

イデアと行動には雲泥の差がある。

そもそも高揚感と呼ばれるものも人によってレベルが違うのかもしれない。自分にも動かざるを得ない高揚感が訪れる事を願う。

 

仕事には、「自分が自分でいられる仕事」「人にありがとうと感謝される仕事」「経済的に成り立つ仕事」、この「3つのものさし」があり、これをすべて満たす仕事であることが、「仕事が人生の一部になる生き方が出来る」と大学時代の友人に教わった。(p186)

大学時代の友人、良いことを言う。

僕の友人にはこんな良いことをいう奴はいなかった。しっかりしてよ、僕の友人たち。

簡単にすれば「自己表現」「他者貢献」「経済的独立」といった事になろうか。経済的に成り立つためには、あとは我慢しなければならないという風潮はまだ根強い。

仕事を生活の一部に取り戻すことが必要だと思う。

 

 

文章も経営もあくまで愚直である。ひどくまっとうな内容でアクロバティックな内容は何一つ書いてない。著者の写真だけで読み始めると途中で飽きるかもしれない。

しかしまっとうな事を臆さずに語り実行していける、武士のような人がいることに心が弾まずにはいられない。

 

テースト・オブ・苦虫1

 

テースト・オブ・苦虫〈1〉

テースト・オブ・苦虫〈1〉

 

 町田康の本を初めて読む。

 

町田康にはずっと抵抗があった。食わず嫌い読まず嫌い。

読まず嫌いだった理由はどうも奇を衒っている文章にしか見えなかった事。

二つ目の理由は知り合いが町田康好きで、奇を衒った文章を真似していた事。

内田樹さんが著書の中で絶賛していたのを見、恐る恐る読んでみた。

 

読んでみて分かった事。

人間狙ってこんなに多く奇を衒えるものではない。きっと元々こんな人だ。 

というか奇を衒うとは正反対で、自分に忠実すぎて私的過ぎるのだ。文章を分かりやすくする事よりも頭に浮かんだものを言語にする事に注力している。読ませる事より書く事に集中している。

 

頭に浮かんだもの、雑音や擬態語や恥ずかしい考えや人に知られたくない事なども含めて文章にしたもの、それがこの本。

匿名でもなかなか出来ない。体張って生きてるな、て感じ。

自分の中に浮かぶ事ってしょうもなくて何の独創性もないような気がするが、それは出力するときにパッケージにしてしまうからであって、ここまで頭の中に肉薄出来ればそれだけで非常に私的で他にないものが書ける事がわかった。それも多くの分量を書ける。でもそれが他人に通じるかは別の話。

まずは頭の中身に肉薄する事が第一、それからどこまで他人と共有する言葉へとパッケージにするのかという程度問題に至る。

 

私的すぎて読んでいて疲れる。知らない人の独り言を延々聞かされるようなものだ。

シラフでは疲れるから酒を飲みながら読んでみたら断然読みやすくなった。

 つらいけど我慢して読み進める。4分の3くらい読み進めると少しずつ頭に入ってきやすくなる。知らん人の独り言が知っている人の独り言のようになってくる。

それと、このエッセイは連載されていたもののようだが、町田康自身がもう少し頭の中を翻訳して書こうと思ったのもあるんじゃないか。終盤は私的過ぎる内容が少しパッケージされ筋道立っているように感じる。良いのか悪いのか別にして。

 

ともかく何となくこの人の文章を読めるようになってきた。が、いかんせん疲れる。小説も読んでみたいのがあるがまあまた今度。

たぶんこの文章の凄い癖をまた味わいたくなる日がくるに違いない。ビールキムチと一緒に。