かなしみは だれのものでもありがちで ありふれていて おもしろくない
枡野浩一さんの短歌。今回も原典は参照していない。
しっかり調べないと書かないとなると面倒くさくなりそうだから
調べないのがポリシー。
この歌を知ったのは大学時代の深夜番組だったと思う。だいぶ昔。
たぶん枡野さん自身も出演されていたように記憶している。
この短歌をきっかけに枡野さんの著書を読み、
枡野さんが大好きだった奥さんと離婚して、苦しい思いを引きずっていて、
それすらも短歌にしている人だったと記憶している。
この短歌はその奥さんの話かどうかは知らないが(時系列も分からない)、
自分の弱さをこんな上手に表現できる人がいる事、
そして弱っている時だからこそ表現できるものがある事を学んだ。
おそらく僕もふられて、長く引きずっていた時。
悲しみを、というか自分というものを過大評価してしまうと
悲しいのは自分だけと思ってしまいがちだが、
ありふれたベタベタな悲しみなので面白くないという。
確かにその通り、僕の経験なんか人から聞いた話ならあくびでもしながら流すか、
心配するふりをして「飲みに行こう」と酒を飲む口実にでもしてしまいそうだ。
もっと深刻な事、死ですら他人のものは悲しいどころか興味すらない。
小学校の時、担任の先生の親が亡くなって自習になった。
先生の親の死どうこうより自習になったことのほうが楽しかった。
この歌は自分の悲しみをばっさりと相対的に見せてくれる事が救いになる。
どこかの国の偉い人(誰かは忘れた)が「人生は近くから見れば悲劇だが遠くから見れば喜劇」と言うのも同じ事だろう。
そういえば斉藤和義さんも「自分の仕事を一番つらいとは思わない」といったような歌を歌っていたなあ。
相対的に引いてみる事が出来れば、感情に振り回される事は少なくなるのだろう。
禅の思想もそんな感じの事を言っている。繋がるなあ。
でもでも自分の事ばかり考えてしまう。
他人より自分の事を何倍大事にしているのだろう。
そして他人への想像力って自分の感情の何分の一だろう。
この歌はそんな事も考えさせてくれる。