街場の戦争論
内田先生の本を読み始めたのはここ1年くらいだが、その影響力は半端ではない。
「辺境ラジオ」をポッドキャストで聞いたのがきっかけだが、めちゃくちゃおもしろい。内田先生と精神科医の名越先生、そしてMBSの西アナウンサーがただただお喋りしてあれこれ解説していくのだが、3人の話がなぜこんなに腑に落ちるのか。
これが腑に落ちるということか、と腑に落ちるの意味が腑に落ちたくらい腑に落ちた。
特に内田先生の知性とたまに出現する茶目っ気と優しい語り口がたまらない。
とにかく聴ける人は初回だけでも聴いた方がいい。最初の「ハエの話」からもう興奮する(本も出ているがラジオおすすめ)。
会ったことも動いている姿を見たこともない内田先生に勝手に先生とつけている。「私淑」という概念ですら内田先生の本で知ったであり、その影響は計り知れない。直接お話しを聞いてみたいものだ。
ということで、お分かりとは思うがこの感想には多分にバイアスがかかっている可能性があります。
日本の戦後の検証、現状分析、そして詳細な未来予測がこの本の主題。
その他に人間観、仕事観、教育観、組織観が散りばめられており、内容は硬派。なのにサクサク読んでしまうのは、筆力と語り口に加えて、最初にラジオで声を聞いたというのがあるのではと思う。
現在は戦争に向かう間戦争期であるとしてこの本を出版されたのが昨年10月。
わずか4ヵ月だが事態は大きく変わっている。内田先生が詳細に予想するような未来はまだ訪れていないが、向かいつつあることを感じる。
戦争はなぜ起こるのか、日本はなぜ負けたのか、負けて日本人は何を失ったのか、日本はなぜまた戦争に向かいつつあるのか、ということはどんな意見の人でさえ考えておくべきことだと思う。
僕たちが敗戦で失った最大のものは「私たちは何を失ったのか?」を正面から問うだけの知力です。あまりにもひどい負け方をしてしまったので、そのような問いを立てる気力さえ敗戦国民にはなかった。(p27)
何を失ったか、という問いは断絶からは生まれない。失ったものは今はないため分からないのだから。
戦争を生き延びた人はいたのだから、そんなに断絶することはないと考えていたが、そんな問いを立てる気力さえ無いほど負けたのだとしたら。そして断絶を知っている人々が現在ほとんど亡くなっているのだとしたら。もう想像力によって補うしかないのか。
この文章だけでも既成概念が揺らぐ。
敗北の検証が自力ではできないくらい負けた。(中略)負けたあとに、原因を検証できる能力がないくらいに徹底的に負けた。(p48)
「植民地になっていないし、経済成長しているし、長い目で見たら勝っているじゃなないか」と思ってしまうほど負けたということか。
戦前の日本人と今の日本人との勝ち負けの概念が変わるほど負けた、ということだと思う。
戦争をしている政府に私が反対であろうとも、その『くに』が自分のもとであることにかわりはしない。(…)この国家は正しくもないし、かならず負ける。負けは『くに』を踏みにじる。そのときに『くに』とともに自分も負ける側にいたい、と思った。(p63)
小林秀雄の戦中の言葉。
「政府」と『くに』、正しくないものと温かいものの対比。感覚的に良く分かる表現。
ここには『くに』に対する断絶はない。『くに』の責任を引き継ごうとする、継続の意思がある。
もし自分たちのことを大日本帝国臣民の正統な後継者であると思っているのなら、祭神である死者たちに深い結びつきを感じているつもりなら、死者たちに負わされた「責任」の残務をこそわがこととして引き受けるはずです。(p78)
靖国参拝に対する意見。
戦争を起こした人の責任を負う、ということで結びつきを感じるなら参拝する値打ちも分かる。先祖の謝罪は済んでいるからもう謝罪の必要はない、と結びつきを否定しようとする人ほど結びつきを感じているように見える不思議。確かに。
「敗れて滅びる」という選択肢も含めて、日本人は自分の運命を決めることができた。日本人は一九四五年まで自己決定できた。今はできない。(p90)
マンガでよく、負けた者は死に方すら選べない、って出てくる。
どうせ死ぬんだから死に方なんてどうでもいいんじゃない、て思ってしまうほど飼いならされているのかもしれない。愕然。死に方を含めて生き方の権利を差し出しても何も感じない、それは独立した人間でないのかもしれない。
「奴隷精神を持つとは、命令されても不快に感じなくなること、命令され得なくなることを言う。主人に対する愛が閾値を超えると、奴隷の魂は主人の魂との間に距離を取れなくなる。」(p102)
内田先生の先生、レヴィナスの言葉。
命令され得なくなること、それが奴隷精神。恐ろしいけど思い当たる節は沢山ある。沢山あるけど普段は見えない。
まず人間です。どういう人を範例的な「おとな」として事故陶冶のロールモデルに掲げるのか。それが最終的には国民性格を決定し、国のかたちを決定する。(p111)
哲学や文学といったいわゆる文系が蔑ろにされている感はある。
理系は文系のなり損ねではない、国の形を作るロールモデル作りの一翼を担っているのだ、と文系人間の僕は溜飲を下げる。
どんな人になりたいか、もっと正直に「人間」の話をしよう。
国民たち自身が自分たちの政治的自由を制約し、自分たちを戦争に巻き込むリスクが高まる政策を掲げる内閣に依然として高い支持を与え続けているのは、「民主性や立憲主義を守っていると経済成長できないから、そんなもの要らない」と思っているからです。(p142)
「いやいや先生、それは言い過ぎじゃないの。戦争のリスクと経済成長をトレードするなんて」と思ったけど、確かに「当然経済成長だろ」と言いそうな人いる。
そしてそれが支持率の原因なのか?それならまた愕然。
株式会社は経済成長しないと生きていけない、右肩上がりのモデルの中でしかいきてゆけない生物なのです。(p161)
内田先生は日本の病理の原因の一端を株式会社というマインドに求めます。非常に腑に落ちる理論だと思う。
ほとんどの人が株式会社しか組織を知らず、そして株式会社はこんなにも成功を収めてきた。(経済成長が見込める時代ではないが)なんとか株式会社を存続させねばならない、という論理から病理の多くは生まれている。
株式会社を廃止は出来ないが、主流は変わるべきな気はする。人類ずっと株式会社システムでやってきた訳ではなし、戦争とか過労死とか出してまでそんな無理して守るべきものではなし。
どうしても経済成長したければ、それまで国民資源として、無償かそれに近い低コストで享受できていたサービスを商品化して市場で買うほかないようにするのがもっとも安直な方法なのです。(p250)
景気を良くするためにお金を遣う、という発想にどうしても馴染まない。遣いたいから遣うんであって、経済が回るからっておかしい。貯蓄しても回る経済やお金を遣っても生きていける社会を考えるべきでは。
経済成長率を指標にする限り、物々交換、自給自足、親の介護、家事労働などの金銭の支払いが発生するしないものは推奨されない。ビジネス、外食、介護産業、ハウスキーパーが推奨される。
推奨されないもののほうに惹かれてしまう僕はこの国に貢献できないのではないか。
「ゆるい」環境を用意しておくと、危機的状況におけるリーダーに遭遇する確率は高めることができる。(p274)
リスクヘッジについて。
リスクを数える手法には限界があり、本当の危機は予想外である。その時には平時に役に立たない人間を束で置いておくと役に立つかもしれない、クールに見えるが愛情溢れる話。
内田先生はバカにも役割を与えてくれる。
引用多すぎて疲れた。残しときたい気持ちはあるけど考えないとしんどい。
この本でもミシマ社の三島さんの名前が何度も出てきたり、建築家の光嶋さんの名前が出てきたり、若い人と仲良いんだなあ、という感じがちょくちょく溢れている。
こんなおとなになりたい。