レシーバー同好会

攻めろ戦えとハッパをかけられる事が多いが、本当は守るほうが好き。スマッシュやアタックよりレシーブにゾクゾクするあなた、気が合うかも知れません。ちなみにスポーツはしていない。

野性と社会性

「野性」と「社会性」という言葉は一見すると相反する言葉である。

野性的というのは、自給自足をしながら食べたい時に食べ、寝たい時に寝るイメージ。秘境に生きるターザンが最も野性的である。 

一方社会性のある人というのは、社会や世間とうまくやっていくために自らの欲望を我慢し、他者と歩みを同じくする人である。

社会においては、当然の事ながら社会性が重視されている。

 

社会において、社会性が重視されるのは当然の事だが、あまりにも重視されていて、野性が蔑ろにしているように感じる。社会を回すためには社会性が必要だ、というのは意味がないし、そもそも野性と社会性の二項対立で考えるべきではない気がする。

 

野性というのは生きる力そのものである。人間に欲望がある限り、欲望に忠実に生きたいのが本音だろう。例えば無人島かなんかで、自らの野性をもってして独立して生きていけるならばそれで問題はないと思う。

しかし人は一人では生きていけない。生きていけるかもしれないが面倒である。一から食料を育て、糸を紡ぎ、火を熾す。可能だがそれだけで一生は終わってしまう。終わってしまっても構わないが、もっと楽がしたい。もっと言うならやはり淋しい。

つまり、より楽に生きるという欲望のために人間は社会性を育ててきたのである。間違っても欲望を抑えるためではない。「野性と社会性」ではなく「野性のための社会性」という事である。生き抜く力である野性が目的とするならば、社会性とはその手段である。チーターに俊足が、ゾウに長い鼻があるように人間は社会性を発達させてきた。

 

社会性の発達は脆弱な人間にとって生き抜くための有効な手段となり得た。

ほとんどの人間には一人で生きていくだけの野性の力はもう無いし、今後も社会性は必要不可欠であり続け、重要性は増していくだろう。しかしどこまで行っても社会性は手段に過ぎないのだと忘れてはいけない。

人間関係や経済問題などで自ら命を絶ったり病気になったりするのはやはりおかしい。手段が目的化している。手段を絶対視して本来の目的を見逃してしまっている。社会性は有用な道具だが生き抜くためには他の方法、俊足や長い鼻を手に入れるという事も可能なはずだ。

 

もう一度野性のための社会性という事をゆっくりじっくり考えるべきではないか。

一人で楽しく生きられるならそれでいい。家事を分担したり承認欲求を満たすためならば家族がいればいい。自分の畑の不作が怖いのならば村の人と仲良くすればいい。色んなものが食べたいのならば周りの人と交易をすればいい。珍しいものが欲しくなったら海外と貿易すればいい。

一人の人間のスケールからスタートすれば良いと思う。人一人が楽しく生きていくためにはどこまで社会性を身につけねばならないか。

よく分からないままにいきなり世界とか国とか経済とか観念的な物に飛びつくから頭でっかちになってしまって社会というフィクションを過大評価する。

自分や周りの人が幸福になるところからスタートする事はエゴでも何でもない。むしろよく知らない人の事に口を出すからこんがらがってくる気がする。

自分一人が楽して生きる事から考えよう。

 

何が言いたいかといえば山ですれ違う時はしっかり挨拶しよう。何のための挨拶かといえば生きるためだ。