レシーバー同好会

攻めろ戦えとハッパをかけられる事が多いが、本当は守るほうが好き。スマッシュやアタックよりレシーブにゾクゾクするあなた、気が合うかも知れません。ちなみにスポーツはしていない。

一九八四年

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 「君の心のなかのすべてが死んでしまう。愛も友情も生きる喜びも笑いも興味も勇気も誠実も、すべてが君の手の届かないものになる。君はうつろな人間になるのだ。われわれはすべてを絞り出して君を空っぽにする。それからわれわれ自身を空っぽになった君にたっぷり注ぎこむのだ」(p396)

誰もが自分を自分たらしめるために、拠り所としているものがある。それは恋人かもしれないし、友人かもしれないし、音楽かもしれないし、一日一回笑うことであるかもしれないし、挑戦かもしれないし、真面目さかもしれないし、その混合物かもしれない。

このセリフの主は完璧に市民を統御している(ように見える)「ビッグ・ブラザー」率いる党の幹部。党の統治手法の肝は市民を空っぽにすることだ。あらゆる手法によって空っぽにし、仮想敵に対して、または労働者間において、猛烈な憎悪を抱かせる。拠り所は憎悪に単一化される。

なぜ党が徹底して権力を得ようとするかといえば、権力のため、である。権力のために権力を求める。それが人間である、と言ってしまえればそれまでだが、それはそれはおぞましいものとなる。

 

権力は人を狂気に走らせる。その権力を維持するために用いられる憎悪も人を狂気に走らせる。そんな世界では憎悪を持たない人間が逆に狂人としての扱いを受けることになる。

この小説はこれまで読んだどのSF、どの近未来予測より地獄絵図である。しかも説得力のある、身近にある地獄絵図である。どこかで見たことのある憎悪の仕方、どこかで聞いたことのある統治の仕方が続く。

 

権力が仮想敵を作り出し、内部の不満の捌け口を仮想敵への憎悪に転嫁することによってカムフラージュすること。それは知っていた。

知っていたけど、それはこんなにも使い古された手法だったのか。50年以上前に書かれたこの小説の手法は現代でも問題なく有効である。実際に様々な組織に散見される。

ジョージ・オーウェルが既にその危険性を説いてくれているというのにまだ有効であることが恐ろしい。「無知は力なり」、ただし権力者にとって。

 

この本は権力者にとって危険な書である。なぜなら市民を無知から醒ましてしまう可能性があるから。

逆に僕たち庶民はこの本を読むべきである。魂まで権力に抑えつけられている(抑えつけられる可能性がある)ということを知っておかねばならない。というか知ることからしか始まらない。

 

この書が発禁となったとき、それは間違いなく恐怖政治が始まるときである。実際ソ連では一時期発禁となったようだ。

では発禁とならなければ恐怖主義の季節は来ないのか。いや、発売していたとしても市民が本を読まなくなったときも同様の可能性があり得るだろう。どこかの国で国民が本離れしている、そんなニュースが流れたら危ないかもしれない。

 

解説を読んでから知ったのだが、ラストは救いのある終わり方であるようだ。

しかしそれがどのように為されるかは描かれていない。いくら想像力豊かなジョージ・オーウェルでも、自分の描いた完璧なデストピアからの脱出方法を思いつかなかったのかもしれない。

方法は分からないけどこの絶望の物語を希望で終わらせたかった気持ち、よく分かる。 

 

 

醜悪なまでに高揚した恐怖と復讐心が、敵を殺し、拷問にかけ、鍛冶屋の使う大槌で顔を粉々にしたいという欲望が、スクリーンに見入るもの全員のあいだを電流のように駆け抜け、本人の意思に反して、顔を歪めて絶叫する狂人へと変えてしまうのだ。(p25) 

 恐怖や復讐心から顔を歪めて絶叫する人々。今でもたまに見ることのある光景である。

人間だから恐怖や復讐心は否定できない。問題は怒りによって我を忘れ、大事なものを見落としている可能性があるということだ。更に言えば怒りを増幅することによって大事なものを隠そうとしている者がいる可能性はないだろうか、ということだ。冷静に考えるより熱狂する方が楽だし気持ちいい、それを利用しようとする輩はいるはず。

 

プロールたちが強い政治的意見を持つことは望ましくないのだ。かれらに必要なのは素朴な愛国心だけ。それに訴えれば、必要なときにいつでも、労働時間の延長や配給の減少を受け容れさせることができる。(p111)

プロールとは最下層の都市生活者のことである。教育もろくに施されず、動物と同等の扱いを受け、単なる労働力と見なされている。

権力者は被支配民が政治的な意見を持つこと、考えることを望ましいと思わない。ただ高揚する気持ちを与えれば事足りるのである。

現実問題こんな組織は腐るほど存在する。なんと古典的な手法に良いようにされてしまうことか。

 

もし万人が等しく余暇と安定を享受できるなら、普通であれば貧困のせいで麻痺状態に置かれている人口の大多数を占める民衆が、読み書きを習得し、自分で考えることを学ぶようになるだろう。そうなってしまえば、彼らは遅かれ早かれ、少数の特権階級が何の機能も果たしていないことを悟り、そうした階級を速やかに廃止してしまうだろう。結局のところ、階級社会は、貧困と無知を基盤にしない限り、成立しえないのだ。(p293)

階級社会が無知によってしか成立しないのならば、階級上部はあの手この手を使って下部が知識を得るのを妨げるのが本来の姿であろう。

例えば、つまらない教科書にしたり、誤った歴史を教えたり、学校で職業訓練だけを与えたり。僕たちはそれに負けずに知識を得ようとしなければ階級下部に固定されてしまう。

 

戦時下にある、つまり危険な状態に置かれているという意識がある為、少数の特権階級に全権を委ねることは当然であり、生き延びるために不可避の条件であると思えてしまうのである。(p296)

権力はどさくさに紛れて更に権力を持つようになる。そしてそのどさくさは権力が作り出したものである可能性がある。

この部分と全く同じ批判を受けていた政府が最近あったことを思い出す。

 

名称を省略形にすると、元の名称にまとわりついていた連想の大部分を削ぎ落とすことによって、その意味を限定し、また巧妙に変えることになると看取されたのである。(p470)

耳触りや口当たりの良い短縮言葉に騙されるな。ワンフレーズの分かりやすい言説には注意せよ。