地方消滅
地方再生の話を聞くと僕はワクワクしてしまう。
それはきっと泥臭い話であるから。
こうすれば良いという答えがある訳ではない。
ありものを使って何とか生き延びていこうとする非常に泥臭いお話である。
日本にはある程度のインフラがあり、教育レベルがあり、経済的な余裕もある。
なのになぜ閉塞感が漂っているのか。
すべてとは言わないが、僕はいくらかは「すれちがい」に起因しているように思う。
会社と社員のミスマッチ、
若者に相手してほしい老人と老人の手助けを必要とする若者、
おいしい野菜を食べてほしい生産者と国産の野菜を食べたい消費者。
ありものしかなくてもマッチングを最大限行う事が出来れば、もう少し豊かになれる。
人や物といった眠る資産を一つ一つ見つけ出し有効活用していく。
それはアナログな現場作業であるが、地方再生とは地方の普通の人と物の物語である。
普通の人による小さくても手触りのある経済や顔の見える政治。
そんなものに希望を感じているのかもしれない。
で、話題の書、「地方消滅」読了。
いくつか気になった言葉を引用してみる。
都市で生活困窮に陥っている若者が農林山漁村において農業法人に就労するならば、農林水産業の担い手確保だけでなく、若者の自立支援のうえでも意義が大きい。(p64)
これはその通りだと思う。
都会で生活困難でも村に行けば生きていけると思う。
少し人の役に立てば野菜や米は貰える。少なくとも都心部にいるよりは。
スキルなんて無くても村に行けばヒーローになる可能性がある。
若い人がいるというだけで、少し力仕事をしてくれるというだけで、必要とされ感謝される環境がある。
自立して人に認められて生きていく、こんな欲望すら満たされていない人たちがいる。それを都市はもう与えてはくれない。
日本の人口減少対策はこれまで「少子化対策」に主眼が置かれ、「社会増減」は経済雇用情勢が変われば収まると考えられてきた。(p103)
経済雇用情勢が変われば、というのはまずいと思う。
ここまで複雑になってしまった経済の動向に任せるというのは賭けであり、生活を賭けの対象にしてはいけない。
生活は右肩上がりではないし、どう考えても下がる公算のほうが大きい。
生活をどこまで変えても生きていけるか、生活水準をどこまで下げれるのか、といったシミュレーションは自治体だけでなく、個人レベルでもしておくべきだ。
東京は「人間を消費する街」。(p148)
これはエコノミストの藻谷浩介さんの言葉。
東京は出生率が低く、再生産しないし、更に地方から若者を呼んでは減少させていく。
確かにその通りだが、それ以上に人間を消費するという言葉の意味は大きいと思う。
芸能界や労働環境の報道を見ていたらつくづく思うが、人が商品と同様に消費の対象とされていると感じる。
地方は人を消費しない、という事を売りにしよう。
コテコテの人間関係かもしれないが、決して消費はしない、と。
どんなに頑張っても地方は東京にはなれないが、そんなに都会っていいんですかね、都会にいても消費されるだけじゃないですか、といささか過激にでも正しい事を発信していってもいいと思う。