超訳 古事記
にっぽんは 思っていたより やおよろず
八百万の意味、舐めてました。
樹とか、石とか、トイレとか、なるほど神様がいそうなところに神様はいると思っていた。まさか大便小便から神様が生まれ、顔を洗えば右目から生まれ、左目から生まれ、鼻の下から生まれ、溺れて死ぬ時には水の上部、中部、下部から神様が生まれるとは。
日本の神々がこんなに清濁併せ飲むものとは知らなかった。僕の感覚ではグロテスクであったり残虐であったりもする。キレイ事ばかり言ってないところが味噌なんだろう。
日本の神々がそもそもこんな寛容ならば他の宗教ですらいくらでも受け入れてきたのにも納得できる。良く出来た宗教なんだなあ、と感心する。
なぜ今まで読まなかったのだろう。神話を読んで思い出すのが手塚治虫の『火の鳥』やテレビゲーム『ペルソナ』というのがサブカル日本を感じる。
ストーリーこんな面白いんだからマンガとか絵本とかでももっと出たら良いのに。もう少し古事記調べてみよう。
千年以上も昔に纏められた書物であるが、人間を描くモチーフは変わらない。嫉妬、不倫、マザコン、いじめ、兄弟喧嘩、駆け落ち、疑心暗鬼。
こんな永遠のテーマを世代論や現代の病理として解決しようなんて浅はかである。これらは千年来の悩みであり、これからも悩みである。
こんな悩みなんて人間が千年も前から悩んでるんだなあ、と視野を広げることによってのみ、悩みに悩むことから人を救うのかもしれない。
初めて読むのに、感覚的に納得できるところがあるのが面白い。
四国は阿波と伊予は女神、土佐と讃岐は男神って確かにそんな感じする。
ちなみに四国が出来たのは日本で二番目、最初に出来たのは淡路島。本州が出来たのは最後である。天孫降臨した出雲もそうだけど、古事記で重要なところって現在結構地味な印象。
京都とか奈良とかより断然歴史ある訳なので、ひとごとながらもう少し胸張っていいと思う。それとも淡路島や隠岐の人々は「また新参者の本州がはしゃいでるわ」くらいのスタンスで見ているんだろうか。それなら愉快だ。
生きる ということは
産霊の 神々から始まる
神々の 生成化育する体を
わが身の個体に 取り入れる ということ なのである(p35)
周辺にあるもの全て八百万なのであり、食物だって当然神々の体なのである。
残すともったいないとか、飢餓の国の人々に申し訳ないとか、頭で考える前に神様を取り入れているという感覚があれば丁寧に扱うようになるだろう。
古いけれど、とても斬新な考え方に思える。