レシーバー同好会

攻めろ戦えとハッパをかけられる事が多いが、本当は守るほうが好き。スマッシュやアタックよりレシーブにゾクゾクするあなた、気が合うかも知れません。ちなみにスポーツはしていない。

他者と死者

 

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

 

 「これは途中で降参するかもしれない」。手に取ったときそう感じた。そして経験上この直観は大体当たる。そもそも読む前から腰が引けている、当然である。

 

しかし本著は読了。なぜか。それは著者への「期待感」だと思う。

「この先読み進めれば分かりやすい比喩で説明してくれているのではないか」という期待のもと、難解であるがゆえに読み進めてしまう。

更に「難解さには理由があるはず」という期待。ラカンレヴィナスが難解に書くには理由がある、というのが主題の一つである。ならば内田先生にも何らかの理由があるのではないか、と期待してしまう。序盤で「難解さに理由なんかない」と思えばその時点で終了、わずかでも納得してしまえば読了することが自動的に決定してしまう。

 

特に突き刺さったのは以下の部分。

「私は……で生きている」という「他なるもの」への依存、他なるものの享受に基礎づけられている。「私」は「非ー私」を享受し、「非ー私」に「依存」するというあり方においてはじめて「私」なのである。(p209)

「自然と生きる」とか「地球にやさしく」といった言い回しが苦手。なんだかおこがましい気がする。

また「剣に生きる」とか「映画に生きる」というのにも違和感があった。勇ましさや覚悟が前面に出過ぎていて実態と違うのではないか、と思う。

そこで「……で生きる」に変えてみる。すると「自然のおかげで」とか「自然でもってして」といったような一歩下がったニュアンスが出る。また「映画によって生きさせてもらっている」というような出会いへの感謝のようなものが表現できると思う。

享受し、依存し、受け身で、遅れてきた存在、それが「私」なのである。

私ならざるものに依存していることは、少しも私の自己同一性を揺るがさない。むしろ、「非ー私」を絶えずおのれのうちに繰り込み続ける「とぐろを巻くような内回転の運動性」こそが「私」の本質をなしているのである。(P209)

自分なんて確たるものではない、本質は運動である。

過去にいくら多くの事を取り込んでいても、回転が止まれば私の本質は損なわれる。変化すること、居着かないことが本質なのである。

幼い頃、そのとぐろは小さいのだろう。だがその分高速の内回転であった。他者を十分消化し吸収率もよかった。

しかし多くを取り込むため次第にとぐろの渦は大きくなる。すると雑に取り込んだり、回転自体を止めかねない。

とても腑に落ちるモデルだ。