レシーバー同好会

攻めろ戦えとハッパをかけられる事が多いが、本当は守るほうが好き。スマッシュやアタックよりレシーブにゾクゾクするあなた、気が合うかも知れません。ちなみにスポーツはしていない。

ためらいの倫理学

 

ためらいの倫理学―戦争・性・物語

ためらいの倫理学―戦争・性・物語

 

正義が峻厳にすぎないように、赦しが邪悪さを野放しにしないように。(p100) 

 

久々に寝る間を惜しんで貪り読んだ。これがあるから本読みはやめられない。

 

内田樹先生が「個人名で出版する最初の単著」とのことである。

内田先生が誰に頼まれた訳でもなくブログに書きつけてきたものを出版社が目をつけ世に出たもの。

以降の内田先生の著書の目次のようだ。先生の考えが凝縮されている。

魅力的なのは切れ味鋭く批評を書いてもいるが人格攻撃はしない。学問的には誤りでも「人間的」や「政治的」には正しいと言ってしまえるとことが偉い人だと思う。「もし自分がその立場なら間違いなく自分もそうしてしまう」という内田先生の目線は忘れないようにしたいところである。

 

「ためらいの倫理学」という題名が良い。

倫理学とは「良い」「悪い」「正しい」「正しくない」。それは元来二項に対立され 価値判断を伴うものである。学問の中でも歯切れが良く、というより歯切れの良さを求めるためのものであるように思う。それをためらう。価値判断を「ちょっと待てよ」とためらうのである。

今、偶然にジョージ・オーウェルの「一九八四年」を読んでいる。ここでは言葉が意図的に淘汰されており、語彙を減らされ対義語が消滅していく。例えば「良い」の反対は「非良い」である。これはためらいとは反対の姿勢である。言葉がペラペラで微妙なニュアンスが入り込む余地はなく、つまりためらいはない。(「一九八四年」については読了後また考えてみる。この本も当たり)。

 

「ためらい」についてレヴィナスの「顔」という概念を引いている。それはカミュ論での中の例が秀逸である。

カミュは「異邦人」の中で主人公ムルソーが人を殺した際、汗や光の加減で「顔」が見えなかったとしている。もし顔が見えていれば、汗が目に入らなければ、結果はどうあれ、ムルソーは殺人をためらったのかもしれない。

 

「顔」が見えること、見ようとすること。「顔」が見える関係であること。

人は統計や数字だけ見ていたら残酷で非情になる。100人死亡のグラフを見せられるより、一人の死者の顔写真を見せられた方が迫るものがあるはずだ。

審問と赦し、どちらかを選ばねばならないという倫理は最終的には必要である。それを正当化出来るのは、ためらうこと、顔を見ること。

非常に示唆に富むと思う。イスラム国しかり、ヘイトスピーチしかり、ネット上での人心の荒廃然り。一度しっかり顔を見てみるとそんなに恨んでばかりはいられないと思う。

 

「なぜ私は○○について語らないか」という 章立ても渋い。

「意見を持つこと」や「語ること」が過大評価されていると思う。口の上手い人が勝つ、という風潮。口下手で意見を持つことにためらってしまう人間は中々やりにくい世の中ではないか。

意見を持つことにためらい、語ることを押しとどめる。

語らないのだから理解してくれというのは無理かもしれないが、語らない人の気持ちを推し量ることも必要な事なのかもしれない。

この章立ては内田先生の個人的な語らない(語らなかった)理由であるとともに、口の上手い人が口下手な人を代弁しているようにも感じる。どうもありがとうございます。

 

人間とは矛盾を孕むもので、気持ちとはねじれているもので、愛国心とは葛藤を含むもの。こういった本来的に複雑なものを単純化してしまって答えに飛びつかないようにしよう。

強大なイデオロギーや哲学の前では平凡でか弱くて震えるような繊細な考え方だが、僕は強く惹かれる。ただ単純化してしまう人の顔もしっかり見てみようと思っている。

 

私たちは知性を計算するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場感覚」などというものを感情には入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できているか、を基準にして判断する。(p17)

「ためらい」こそが知性。

ためらわないことが称揚されている気がしないではないが、それは知性とは違う次元の話ということか。まあ確かに知性が一番大事というわけでもないだろうし。

しかし僕は知性が欲しい。少し間違っても大間違いしないために。

 

ジェノサイドというのは、「めざわりだから異物を排除する」というような「積極的・主体的な選択」ではない。その「異物」によって自分たちの社会がいま占拠され、自分たちの文化が破壊されようとしているという切迫した恐怖と焦燥に駆られたとき、ぎりぎりの「自己防衛」としてジェノサイドは発現するのである。(p24)

これは怖い忠告である。

僕たちが被害者だと感じて仕方なく自己防衛したと思ったまさにその時に、僕たちは最大の加害者となり得る。

被害者意識を持ってしまったときに、その恐怖と焦慮を持つにあたって自分に非は無かったか、そもそも本当の恐怖や焦慮か、相手に自分が感じている以上の恐怖と焦慮を与えていないか、と考えるためらい。ここでおそらく知性や想像力が試されるのだと思う。

お互いが正義の名のもとに世界(人間関係でも良い)を単純化し、「被害者」対「加害者」で捉えだすと争いが始まり、焦土となるまで収集がつかなくなるだろう。

 

国家の名においておかされた愚行と蛮行の数々。それと同時に国家の名において果たされた人間的偉業の数々。その両方を同時に見つめようとしたら、私たちの気持は「ねじくれて」しまって当然なのである。それをどちらかに片づけろというのは、言う方が無理である。(p54)

 極めてまっとう。本当にまっとう。

僕は人の足を引っ張る嫌な人間だけどお年寄りに席を譲ることもある。こんな自分は変えたいけれどよく考えたら良いところもある。

別の言い方をすれば、相手が嫌な思いをしたら「ごめんなさい」、助けてもらったら「ありがとう」、凄かったら「凄いね」、と時々に合わせて言いましょう、という話だと思いました。

 

一義的には定義はできないけど、効果的に利用することはできるようなもののことを「道具概念」とか「操作概念」と呼ぶ。(p135)

これは勉強になった。例として「リビドー」とか「気」とかがそうらしい。

あるのかないのか分からないが補助線として入れることで、説明がつきやすくなるものだな。つまりは「仮定」という意味に近い気もするが、それよりも道具っぽい感じかな。

「一九八四年」読んでるせいで引っ掛かったが、言論統制されたらこんな概念は生き延びれないなあ。

 

「読み飛ばせ。理解しようとするな」とシステムは命じる。

怠惰な読み手は黙ってその指令に従うだろう。しかし、真に反省的な読み手は、「抵抗」がもっとも強く働くときこそ、「読むことを自ら禁じているもの」にもっとも近づいていることに気がつく。(p152)

つまり「なぜ私はこの本(部分)を読まない(読めない)のか」という問いの立て方である。

読みたいもの、好きなものに理屈はない。それは感情レベルまで侵されているから、という言い方も出来る。そこに新たな発見はない。

そこで抵抗を感じるものに目をやる。無意識が避けているものの中に、自分が侵されている何か(教育か宗教かイデオロギーか)が見えるヒントがあるのではないか。

どこまでも自省的な考え方である。しんどいけれどそれが知性。